- 内田樹ほか『撤退論』抜粋ノート
- 人口減においても資本主義は「人間の替わりはいくらでもいる」人口過密地を作り出し (本源的蓄積),延命を図るだろう.
- 酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』の簡単なノート
- 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』抜粋・まとめ
- お金がなくても生きていける.
- マルクス・ガブリエルほか『資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐』第3章からの抜粋
- 情報テクノロジーは多くのモノやサービスを無料にし,また余暇を増やすことでコモンとしての生産物を作り出す報酬の伴わない協働的な“仕事”を可能にし,資本主義を終わらせる潜在的な能力を持つ (ポール・メイソン).
- 参考:ポール・メイソン『ポストキャピタリズム』
- 資本主義への皮肉
- 内田樹『コモンの再生』抜粋ノート
- アーロン・ベナナフ『オートメーションと労働の未来』序文より
- 贈与における承認欲求の肯定
- 『算数 小教程』の序文など
- 教育までもBSJ化
内田樹ほか『撤退論』抜粋ノート
内田樹ほか,2022,撤退論──歴史のパラダイム転換にむけて,株式会社 晶文社,東京.
まえがき (内田樹)
国力が衰微し,手持ちの国民資源が目減りしてきている現在において「撤退」は喫緊の論件であるにもかかわらず,多くの人々はこれを論じることを忌避しているように見える.おそらく為政者たち自身も「日本はこれからどんどん衰微してゆく」ということは客観的事実としては認めており,その原因も理解しており,それに対する対策もすでに講じているのだけれども,そのシナリオを国民に対して開示する気がないのだと考えられる.それは撤退戦略が国民資源のかなりアンフェアな分配に基づく計画だからだと想像される.
彼ら指導層のこれまでの思考と行動のパターンを考えると,それは新自由主義的な「選択と集中」をさらに徹底したところの「強者にすべての資源を集中し,弱者は見捨てる」というものになるのだろうと思います.それ以外の解のために知恵を絞るほどの倫理性を僕は日本の指導層に期待しておりません.でも,「強者が総取りする」という「撤退」戦略を,パンデミックとインフレと貧困で人々が苦しんでいる状況下で公開したら大多数の国民の怒りを買うことは間違いありません.さすがに大多数の有権者の怒りを買ったら政権の維持が難しい.だから,それについては腹に納めて,黙っている.
いかなる国民的議論も経ずに,政府部内では「撤退計画」はすでに起案され,着々と実施されている,僕はそう考えています.そして,ある日「ポイント・オブ・ノーリターン」を越えたところで,つまりもう政府主導の「撤退計画」以外の選択肢を採る可能性が失われた時点で,はじめて「日本は沈みつつありますが,生き延びる手立てはもうこれしかありません」という手の内を明かす.そういうシナリオができていると僕は考えています.それがどういうものであるか,それは別稿で書きたいと思います.
撤退は知性の証である──撤退学の試み (堀田新五郎)
全文:「撤退学宣言Ⅰ(問題編),Ⅱ(解答編),Ⅲ(展望編) ──ホモ・サピエンスよ,その名に値するまであと一歩だ」
1. 疑問群
誰もが不安を抱きながら,しかしテーマとして対象化されず,不安のまま放置されていること,すなわち,知性がいま取り組むべき隠された課題,それは次のような疑問に表れてはいないか.「失われた10年は,失われた20年になり,30年となった.いったい,いつまで失われる予定?」「東京一極集中の弊害は誰もが認識し,しかも全然改善されていかない.どうして?」「この20年,日本中が地域振興や地方創生に汗をかいてきた.でも地域は衰退を続ける.大事なのは,もっと汗だくか!?」「いま必要なのは持続や先送りの探求ではなく,困難であれ,『撤退』の探求ではないのか?」
現在,プライマリーバランスの黒字化が,政府の掲げる目標年に達成可能と考える者は(ほぼ)誰もいない.同じく,転出人口と転入人口の差ゼロが,過疎自治体が掲げる目標年に達成可能と考える者も(ほぼ)誰もいない.にもかかわらず,政府も自治体も同じような処方箋を繰り返し提示し,また目標年の先送りを繰り返すのである.
「成熟社会や定常経済, slow lifeやLOHASが幾度唱えられても,人々がシステムからの撤退を選択することはなかった.」 (p.33)
いま必要なのは,「持続可能性」への次の処方箋よりも,人々の思考を「持続」へと方向付ける惰性のメカニズム──「慣性の力学」──を解明し,これまでの手段からの撤退を学ぶことである.カタストロフィー前の方向転換,これが「撤退学」の目標である.
持続不可能なシステムを持続させようとするとき,政治家たちが語る「神話」:「皇軍不敗」「原発安全」「百年安心」「成長戦略」「地方創生」「復興五輪」
「アベノミクス最大の貢献は,3番目の矢(成長戦略)が当たらないことを,満天下に示したことにある.」(p.35)
2. 近代システムの魅力──慣性の力学とは?
我々は「慣性の力学」を,近代システムとくに「資本主義&テクノロジー」の魅力のうちに見出したい.資本主義もテクノロジーも「形式・手段」の領域に属しており,「実質・目的」を問題にしない.ゆえに,世界中に拡散する(グローバリゼーション).実際,目的が何であれ,手段は便利な方がよい.よって,浄土教徒もムスリムも無神論者も,物品はAmazonで注文し,スマホで決済する.
資本主義は「市場における商品・価格の自由競争」に信をおくシステムである.すなわち,「マーケットの自由競争を勝ち抜いたもの=大量に売れたもの」が暫定的に「良い商品」となり,結果,全員を拘束する「スタンダード」が形成される.Windows95が市場をロックオンしてからは,使い勝手の悪いWordがスタンダード化され,誰もがそれを使用する破目に陥った.
競争に勝ったものが暫定的「正しさ」を獲得するのだから,人々は皆,せわしなく急き立てられることとなる.(孫子は,戦いの本質を「速度」と看破した.「競争パラダイム」の社会では,スピードが勝敗を決するのである.) ある者は受験に,ある者は就活に,ある者は競争的資金の獲得へと急き立てられ,いま勉強しているのは単位のため,単位は卒業のため,卒業は就職のため,就職は金銭のため,そのためには昇進,そのためには数値目標クリア,そのためには研修でアップデート……と続いていく (A for B for C for D for…).近代人は,一杯のお茶を一期一会に,ただ「味わうために味わう」(A for A)ことなく,たとえば健康のために飲むのである.
資本主義&テクノロジーが強大な理由として,以下2点を仮説的に提示したい.
- 資本主義&テクノロジーは,危機を養分とする乗り越えの運動だから.
- 危機を養分とする乗り越えの運動は,人間の快楽に適合的なゲームだから.
例えば資本主義&テクノロジーは,環境破壊の危機をイノベーションのチャンスと捉え,システムのバージョンアップで乗り越えていく.「脱炭素社会」を目標に掲げ,化石燃料から自然エネルギーへ,ガソリン車から電気・水素自動車へ,どの国・どの企業がいち早くステージを更新し,利潤獲得ゲームに勝利するか,「グリーン・ニューディール」は「グリーン・バブル」の様相を呈している.
このシステムは『少年ジャンプ』やRPGに酷似する.様々な新兵器やイノベーションを駆使し,ライバルたちと競争・協働しつつ,知恵と勇気と術と絆をつかって,敵を倒しステージを乗り越えていく.これが面白くないはずがない.資本主義&テクノロジーは,人間の快楽に適合的なゲームといえよう.
[しかし引き続きゲームというアナロジーで言えば,資本主義のシステムをいわゆる「クソゲー」と感じている人も少なくあるまい.そこからの撤退・脱出の方が魅力的であることに多くの人が気付けば,希望はある.]
撤退のための二つのシナリオ (内田樹)
私[著者]は以下において「日本の撤退の状況的与件である人口減にどう対処するか」ということについて私見を述べ,それを諸賢の議論の「叩き台」として提出したいと思う.
集中か分散か,二つのシナリオ
人口減に対処する政策的なシナリオは二つしかない.「集中」か「分散」かの二つである.「列島内に人口過密地と過疎地を作り出す」のか「列島の津々浦々に広く薄く人が分散して暮らす」のか,いずれかである.現実的には,その中間のどこかに落ち着くにしても,原理的にはこの二つしかない.
しかし,問題なのは,この二つのシナリオのどちらが適切かという国民的議論がなされていないことである.われわれはこれからどういう社会をめざすべきかという議論がなされないままに,都市圏への資源の一極集中がすでに着々と進行していることである.
たしかに地方への資源分散のための政策がまったくないわけではない.「コンパクトシティ構想」とか「スマートシティ構想」とか「デジタル田園都市構想」とか,見た目だけはにぎやかな構想が語られている.けれども,どれも詮ずるところ「資源を地方都市に集中させ,それ以外の里山エリアを過疎化・無住化する」シナリオである.
中学生たちが口にする不安
「過疎地に住んでいるのは,あなたが自己決定したことである.今後,あなたの居所には公共交通機関も通らないし,警察も消防も病院も学校もなくなるが,その不便は過疎地を選んで住み続けているあなたが自己責任で耐えるべきだ」というのは,公務員が口にしてよい言葉ではない.集落が過疎化したのは住民の責任ではない.人口動態には個人の決断はほとんど関与しない.個人の努力ではコントロールできない現象の結果責任を個人に押し付けるのは筋違いである.
しかし「そんな場所に住んでいるのは住民のエゴだ.生活の利便を求めるなら故郷を捨てて,都市に移り住め」ということを言い立てる政治家が必ず出てくる(もういる).
悪いことばかりではない人口減
人口減は見方を替えれば悪いことばかりではない.人が住んでいた土地が無住地になるのである.広大な土地がただ同然で手に入る.そこでどんな事業を行おうと,「地域住民の反対」というものはもう考慮しなくて済む.大気や土壌や海洋や河川を汚染しても,生態系を破壊しても,それに憤る「地域住民」というものがもういない.長期的なビジネスの拠点にはならないが,短期的に金儲けする気ならできる.さいわい今の時点で「人口減は巨利を得る機会になる」ということに気づいているビジネスマンは少ない.今なら目端の利いた人間が「抜け駆け」できる.
ただし「抜け駆け」するためには,いま人為的に過疎地が創り出されているという事実そのものを国民に隠蔽しておく必要がある.政府は「この問題について国民が関心を持たないことから利益を引き出そうとしている」可能性がある.
資本の原初的蓄積について
資本主義の下では,人口過密地と人口過疎地への二極化は避けがたい.と言うのも,資本家は「囲い込み」によって住人を,先祖伝来の生業を営んでいた土地から追い出した.生業の手段を奪われて,狭隘な土地に集約させられた人々に対しては雇用条件をどれほどでも引き下げることができる.「お前の替えはいくらでもいる」からである.
(あるいは単純に労働量が一定の場合,労働者が増えれば賃金を下げられる.現代日本における新卒一括採用とか,就職情報産業による情報管理などは「求人に対して圧倒的に多い求職者」を人為的に創り出すために行われている.)
しかし人口減がグローバルな規模で起きている中で資本主義を延命し,経済成長を目指すには,論理的に言えば,大規模な「第二次囲い込み」を行う以外に手立てがない.つまり,人口減という条件を「レバレッジ」にして,「人間が住めない土地」を一気に,大規模に創り出すのである.それによって資本主義はしばらくは「人間の替えなんかいくらでもいるんだ」と言い続けられる.
境界線を守る「歩哨」の必要
「囲い込み論者」は次のような里山の重要性を見落としている.
- 人間を養うもののほとんどは里山で生産されている.
また都市を災害が直撃した場合,里山がなければ「逃げる先がない」. - 人間(少数でよい)が生活している里山は,野生の侵略を食い止める緩衝帯となる.
撤退戦としてのコミュニズム (斎藤幸平)
コモンの再生と撤退
無限にフロンティアを開拓しようとする資本主義から撤退するためには,一部の人間が都会から里山へと逃げ出すだけでは不十分である.資本主義を野放しにしておけば,逃げ出した先の環境も含めて破壊し続けてしまうからである.だから,撤退する前に,資本主義そのものの緊急停止ボタンを押さないといけないのだ.その際には,マルムの述べるように,国家の力が不可欠である.[スウェーデンのマルクス主義者アンドレアス・マルムはコロナ禍での危機対応のうちに「戦時共産主義」の萌芽を見出し,「環境レーニン主義」が必要だと訴える(pp.58—59).]とはいえ,国家だけに頼っていてもいけない.市民がその介入の仕方を議論し,監視・規制する力をしっかりと養う必要がある.
そのような国民による国家の力を管理する基礎となるのが,下からのコモン(公共財)の再生である.生活に欠かせない財やサービス,地域のインフラやコミュニティを自分達で管理する相互扶助の実践が求められる.マルムの場合,そのようなボトムアップの視点が弱いため,全体主義的な印象が強まる.だが,そもそも,国家権力発動のためには,社会運動や社会的企業,地方自治体発のボトムアップ型の民主主義が不可欠になる.民衆からの強いプレッシャーなしに,国家が市場との軋轢を生んでまで,気候変動対策を実施することはないからだ.
下野の倫理とエンパワメント (青木真兵)
土着の第一歩が下野
もともと,人間の社会は二つの原理によって成り立っていました.社会の内と外,此岸と彼岸,文明と自然,常識と非常識などなど.でも現代社会を生きるぼくたちは,前者の原理に取り込まれ,身動きがとれなくなっています.すべてを交換可能な商品にしてしまう,資本の原理によって世の中が動いているからです.二つの原理で生きていくためには,この資本による包摂から常に逃げ続ける必要があります.
- 土着:二つの原理を行ったり来たりすることで,
問題を「なんとなく」暫定的に解決する. - 下野:「社会の外を経験すること」と再定義.土着への第一歩.
現代における下野のポイントは,分かりやすく言うと,他者の「ニーズを気にしない」ことだと言えます.
- 自宅兼図書館「ルチャ・リブロ」:勝手に自宅を図書館と名乗り,本の貸出を行っている.置いている本も,徹底的に主観に基づいている.
- 「オムライスラヂオ」:マーケティングを行わず,喋りたいことだけを喋る,聞きたいことだけを聞く形式で,約8年間配信
「分かっちゃいるけど やめられねぇ」
分かっちゃいるけど,やめられねぇ.ここにこそ,下野への扉があります.(中略) なぜなら,「分かっちゃいるけど」は社会の内側,「やめられねぇ」が社会の外側を意味するからです.一人の人間に当てはめると,「分かっちゃいるけど」が社会人としての部分,「やめられねぇ」が生き物としての部分とも言えます.なぜ撤退ではなく下野と表現するのか.それは野に下ることによって,発展の過程で捨て去ってきた,生き物の部分を取り戻すことを意図しているからです.現代社会は「分かっちゃいるけど」を中心に作られ,「やめられねぇ」が置き去りにされてきたのです.
生き物としての部分に気づく
「山奥ニート」の石井さんは,特に標準信仰の強い教員になるプロセスである「教育実習」において,生き物としての部分を傷つけられてしまった.でもこのように過敏で壊れやすい弱い部分があることは,甘ったれていて軟弱なことで批判されるべきなのでしょうか.誰もが屈強で鈍感な社会人として生きていかねばならないのでしょうか.ぼくは全くそうは思いません.
でも近代以降,労働によって賃金を得たり,あっちからこっちに動かすだけで金を生み出したり,とにかくお金を得ることができる人のことを社会人と称して,それを生み出さない生き物の上位に置き続けてきたのです.ぼくたちが目指すのは生き物の復権です.
「やめられねぇ」を持った人,寅さん
頭では分かっていても,気持ちの方がついてこれない.ぼくはこういう寅さん(『男はつらいよ』の主人公)のような人間の方が健全だと思っています.それは人間における生き物の部分が,ちゃんと機能しているからです.生き物の部分がちゃんと機能していると,頭と気持ちが食い違うことがある.それが普通です.しかし現代社会を眺めてみると,資本の原理によってどんどん「頭」の方に画一化が進んでいます.
「分かっちゃいるけど やめられねぇ」を全肯定する
現代社会では生き物の部分がきちんと機能している人ほど,誰もが「障害者」になる可能性があります.むしろ生きづらさを抱えていることが,逆説的にその人のなかに生き物としての部分がきちんと息づいていることを示しているのです.
撤退のマーチ (渡邉格)
楽しく大胆な撤退へ
伝統的な発酵技術を用いるには周囲の環境を整える必要があるように,かつてはすべての生産に環境保全コストが含まれていた.しかし資本主義社会は分業を進め,コストを下げるために環境を破壊し放置するようになった.それがあらゆる問題となって噴出しているように思う.
大量生産によって均質的な商品が隅々まで行き渡り,私たちは便利な生活を享受していると思い込んでいる.しかし今,この社会に溢れる商品の品質は劣化するばかりではないだろうか.伝統的な製法で作られたモノは高価だから買えないと思っている人が多いかもしれないが,手間暇かけて丁寧に作られたモノは優れた面が多い.
まず何よりも長持ちする.例えば,伝統工法で建てられた木造家屋は百年以上もつ.オーガニックの麦芽とホップを原料に野生の菌で醸したビールは,何年も熟成させることができ,年月が経つほどに美味しくなる.
それに意外にも,昔ながらのモノは暮らしを楽にしてくれる.草木染めしたオーガニックコットンの服を着てみると,あまり汚れないし臭くならないから,洗濯は一年に一度くらいで済むのには驚く.
そうしたモノは,資本主義社会の経済合理性とは別体系で作られる.環境を保全しながら良い素材を育てるところから始まり,作る過程にも自然と一体化した思想が流れている.
昔は貧しくてモノがなく,洗濯機などの機械もないから不便だとイメージしていたが,そうではなかったのかもしれない.長持ちするモノを大切に使い,機械がなくても簡単にメンテナンスができていたのではないか.それを今の世の中で応用できれば,私たちはもっと心地よい暮らしができるようになると思うのだ.
極私的撤退論 (平川克美)
著者は2016年の6月,会社が負っていた全ての借金を返済し,15年続けてきた「リナックスカフェ」という会社をたたんだ.(pp.251—252)
撤退は敗北でも逃避でもなく,パラダイムの転換である
わたしはもっと具体的に「私有をやめて共有へ」自分の居場所を移すことを自分に課そうとしたのだと思う.借金返済のために,最初は半ば強制的に私有財産を没収されたかたちだったが,それを期に,むしろ自分から進んで不要な私有物を売却して生活費の足しにし,本や書棚といった私有物を共有の場所に寄贈したのである.逆に共有地からの恩恵については,これを最大限利用しようと考えたのだった.具体的には,風呂は銭湯,食事は大衆食堂,仕事は喫茶店という生活である.そして,いざそれを実行してみると(具体的にはただ借金を返済して,その日暮らしが始まっただけのことなのだが),それまで目にしていた光景が全く違うものに変化したことに改めて驚いたのだ.
わたしは,自分の個人的な体験のアナロジーで,日本の社会状況といった大きな問題を語ることが適切かどうかはよくわからない.ただ,もし個人的な体験から一つの知見を拾い上げることができるとすれば,難しいと考えているシステムの転換は,現在のシステムの思考の中で,現在のシステムが作り上げた言葉や価値観によって考えているからである.その限り,撤退はほとんど途方もないことに思えてしまうのだ.
例えば,資本主義的な競争原理を前提として,経済成長や,人口減少の問題を考えようとすれば,当然の帰結として経済成長は必至のことであり,人口減少は由々しき問題であるという結論に帰着することになるだろう.「福祉国家? それは単なるソフトな共産主義じゃないのか.あるいは,弱者のわがままみたいなものであり,世界の現実はそんなに甘いもんじゃない」.まあ,そんな気持ちになるのも当然だろう.
しかし,問題は競争原理そのものに変わりうる原理がどのような世界を作り上げてゆくのか,そこにどんな希望と陥穽が待ち受けているのかということの,できうる限りリアリティのあるイメージを作り上げられるかどうかということである.原理を変更するとは,そういうことである.そのイメージは,競争原理を前提とすれば単なる負け犬の遠吠えであり,理想論であり,机上の空論だということになるかもしれない.しかし,わたしが競争原理から降り立った地点が,事前に考えていたことと全く違うものであったように,実際に自由競争,自己責任,自己実現,ワールドコンペティションといった考え方の対極にある世界は,おそらくは事前に考えていたそれとは全く違うものになるということだけは確かだろうと思う.いや,自分が置かれていた世界の原理から離れて,別の原理の言葉で考えることこそができたときには,もう別の生き方が始まっているのである.詩人の谷川雁は「イメージから先に変われ」と言った.イメージを変えるとは,単に目標や着地点を変更することではなく,現在流通している思考や,言葉遣いそのものを変えるということに他ならない.
[この辺りは大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』とも重なる.]
酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』の簡単なノート
酒井隆史,2021,ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか,株式会社講談社,東京.
概要として第0講から抜粋 (pp.5—9,文言をいくらか改めた)
現代では人はあくせく朝から晩まで仕事をしているが,その仕事のかなりの部分はなんの意味もなく,たとえば,必要のない穴を掘ってはひたすら埋めているとか,提出後すぐに保管されて二度とみられることのない書類をひたすら書いているとか,そんな「仕事のための仕事」にいそしんでおり,ほとんど仕事のふりをしているようにしか見えない.
そのような仕事がなくても,この世界で生まれている富の水準は維持できるだろう.
ところが,こうした仕事をやっている人は概して社会的な評価が高く,それなりの報酬をもらっている.
そしてそのうちのかなりの人が,自分たちの仕事が穴を掘って埋めているだけだ,とか,だれも読まない書類を書いているだけだ,と気づいていて,しかも,それに苦しんでもいることが分かってきた.
そのような仕事はグレーバーによって,「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」として概念化された.
それに対して,社会的に意味のある仕事をやっている人,おそらく彼らがいなければこの世界は回っていかないか,あるいは多数の人にとって生きがいのない世界になってしまうような仕事をやっている人たち[エッセンシャル・ワーカー]は,低い報酬や劣悪な労働条件に苦しんでおり,しかもますます,彼らの労働条件は悪化している.
おおよそ100年前には,働く人たちは組合を組織して,賃上げよりも,労働時間を短縮すること,自由時間を獲得することに重きを置いていた.
そしてその世代随一の経済学者[ケインズ]も,100年後には,技術の向上やそれに由来する生産力の上昇によって,人は一日4時間,週3日働けばすむようになっていると予言していた.
50年ぐらい前(1960年代)には,ほとんど働かないですむような世界を多くの人たちが求めはじめた時代があった.
そして経済学者の予想した通り,客観的にも,可能性としては,その実現は遠いものではなくなっていた.
ところが,世界を支配している人々からすると,それが実現するということは,人々が,自分たちの手を逃れ,勝手気ままに世界をつくりはじめることに他ならないため,不都合である.
そこで彼らは,人々のなかに長いあいだ根づいている仕事についての考え方を活用し,あたらしい装いで流布させることでした.
その考え方とは,仕事はそれだけで尊い,人間は放っておくとなるべく楽してたくさんのものを得ようとするろくでもない気質をもっている,だから額に汗して仕事をすることによって人間は一人前の人間に仕立て上げられるのだ,といったものである.
こういった考えを強化させつつ,二度と仕事から解放されようとか,自由に使える時間が増やそうとか,人生のほとんどの時間を生きるためにだれかに従属してすごさなくてすむとか,考えないよう,支配層にある人たちは,その富の増大分をほとんどわがものにし,仕事をつくってそれに人を縛ったうえでばらまくのである.
[ただしこれは資本主義に纏わる構造的な問題であり,安易な陰謀論に陥ってはならない.]
こうすると,なにかおかしいな,と思っていても,でも仕事をするということはそれだけで大切だ,むなしかったり苦痛だったりするけれども,だからこそむしろ価値がある,というふうに,人は考えてしまう.
なにかこの世界はおかしいけれども,それがおかしいと考えることがおかしいのではないか,と多くの人が疑念を打ち消すことによって,この砂上楼閣のような世界はかろうじて成り立っているのである.
成り立っているといっても,そのなかは不満で充満している.
うすうすむなしいと思いつつ仕事をしている人たちは,むなしくなさそうな人たち[教師など,意味のある仕事に従事する人たち]をことあるごとに攻撃する.
そうした人たちが,労働条件をもう少しよくしようとしてストライキでもしようものなら,容赦のない攻撃がくり広げられる.
そして,技術的条件によって仕事がどんどん不要になっていくという社会の趨勢のなかで,多数の人たちが失業状態になっていく.
そうすると,彼らに対して,残りの人たちのほとんどすべてから「怠け者」とか「たかりや」といった罵声が浴びせられる.
つまり,この砂上楼閣は緊張感がみなぎっていて,いわば,ごく一部を除いてだれも得をしないというか,みんながみんなを不幸にしあう悪意のぶつけあいによって,ぐらぐらと揺れているのである.
「ブルシット」のニュアンス (p.54)
「ブルシット・ジョブ(BSJ)」には「クソどうでもいい仕事」という訳が充てられるが,この「ブルシット」には「詐欺」あるいは「あざむき」といったニュアンスが含まれる(下記の定義も参照).
最終作業定義 (p.66)
BSJとは,被雇用者本人でさえ,その存在を正当化しがたいほど,完璧に無意味で,不必要で,有害でさえある有償の雇用の形態である.
とはいえ,その雇用条件の一環として,被雇用者は,そうではないととりつくろわねばならないと感じている.
ブルシット・ジョブはなぜ苦しいのか (p.102)
純粋に世界の「原因となる喜び」を目的とする遊びは本来,最高の自由の表現である.
しかし無目的な遊びは,他者から強制されると,不自由の最高の表現へと転化する.
BSJが苦しいのはこのためであるとグレーバーは分析する.
なにもしなくていい人間はどうなるのか (pp.124—129)
人間は失業保険や生活保護などがあると,すぐもらいたがって働かなくなるという,単純な経済学的人間観に基づく発想で,なるべくあれこれ条件をつけ,さらに条件がそろっていてもあれこれいやがらせをはじめなるべく屈辱を味わわせて,保障をもらいづらくすることが行われる.
日本でも生活保護の正確な情報は伝えられず,窓口でのいやがらせや誤った情報で追い返す「水際作戦」が行われている.
さらに生活保護を取辱することが「恥ずかしい」という「スティグマ」意識が加わる.
この事例に見て取れるように,特に日本では,人間は放っておくと怠けてしまうという人間観や,「怠け者」にみられたくないという精神的呪縛は根深い.
とにかく学校が終わったあとの時間や休日であっても,子供は部活や校則,宿題などの適当な,規律的意味しかない無意味な規則で束縛しておかなければならないという発想が日本社会にはある.
ただし程度の違いはあるものの,こうした傾向自体は日本に限ったものではない.
ネオリベラリズムと官僚制 (pp.154—157)
ネオリベラルの政策はいたるところに競争環境を人為的に構築し,その競争を保証するように作用する.
競争構造を導入するためには,すべてを比較対照できるように数量化しなければならない.
それによって私たちに課せられる,すべてをポイント化するための官僚制的なペーパーワーク(業績報告,自己評価,点検など)は,したがって,市場原理と相反しているどころか,市場原理の貫徹と結びついている.
この意味で,ネオリベラリズムこそがBSJの増殖を促進しているのである.
管理にかかわる仕事が増大中 (pp.164—166)
「専門的管理者階級」はプロレタリアでもなければブルジョアでもなく,マネジメントのスキルによって生産過程を統制する,資本主義内部での1つの階級であり,たいてい大卒で資格を持っていたりする.
現代ではこうした中間的管理職階級が増大している.
これはBSJの典型例である,行政官,コンサルタント,事務員や会計スタッフ,IT専門家などの情報関連部門の増大に対応する.
「エッセンシャル・ワークの逆説」について (pp.201—203)
有益で社会的価値のある労働ほど報酬が少なくなる「エッセンシャル・ワークの逆説」が正当化される背景は,次のような(倒錯した)社会的通念に求められる.
(1) 仕事は(たとえそれが無意味でも)それだけで価値がある.それはモラルであり,賃労働を通して身も心も破壊しなければ,正しく生きていない(→教員など,本当に有用な仕事をしている者への反感).
(2) なんらかの無からの創造に関わるものこそが労働であり,ケアに関わる仕事は本来,それ自体が報いであり(やりがいという報いがえられる),それを支えるものであって本来無償のものである.
ブルシット・ジョブとベーシック・インカム
マルクスのコミュニズムのヴィジョンがもっとも凝縮されているのが,「ゴータ綱領批判」というテキストにおける「各人はその能力に応じて[貢献し],各人はその必要に応じて[取る]」という定式である.
ただしマルクスのコミュニズムは「未来像」であり,その前に(革命などの)必要な過程がある(pp.214—218).
これに対しグレーバーは,「各人はその能力に応じて,各人はその必要に応じて」はすでに現実に内在して,現実のうちで作動している「基盤的コミュニズム」であると見る(p.218).
さて,グレーバーは普遍的ベーシック・インカム(UBI)を介して,BSJの増殖を,労働から[の]解放のヴィジョンによって乗り越えていく道筋を示している.
これは私たちの中に強力に根付いたコスモロジー[基盤的コミュニズム]に信を置くものであり,グレーバーは「国家を徐々に小さくしていきながら,同時に状況を改善し,人々をしてより自由なかたちでシステムに挑戦するように仕向ける」可能性をUBIに見ている(逆に国家の統制による福祉国家は官僚制とBSJを生む).(pp.219—222)
ときにUBIには,国家を通してやるのだから国家を肥大化するのではないか,とか,その保障のための税源はどうなるのか,といった疑義がよせられる.
しかし,グレーバーも言うように,これまで見てきた,たとえば失業者にさまざまなハードルをつくり,たらいまわしにし,屈辱を与えながら保障の取得を断念させるさいに必要な,多数の人員とお役所仕事はただちにすべてお払い箱になる.
税源についても,こう考えられる.
十分に生活可能なだけの所得保障が与えられるならば,いまでいう「クソ仕事」[BSJとは対照的に,かつて「3K」などと言われたキツい仕事]はだれもやりたくないので賃金率を上昇させることが予想できる.
魅力的で社会的価値もある仕事は,賃金率を下げるだろう.
基本的ニーズはすでに充たされているのだから,そうした仕事で稼ぐ必要はないからである.
「クソ仕事」は賃金が高いので(となると,もはや「クソ仕事」ではないのだが),経営者は人を雇わなくてすむよう,なるべく自動化しようとするだろう.
グレーバーも言うように,機械にゆだねられる仕事が自動化されないのは,おなじ仕事を低コストでやる労働力があるからである.
もし,そうした労働力が確保できなくなれば,機械のやれる単調な仕事は総じて自動化されていくと予想される.
一方で,望ましい仕事への賃金は,ついにはゼロにまで低落するだろう.
というのも,ベーシック・インカムが基本的ニーズを供給してくれるとすれば,人はそれを無償でもやるからだ.
そして,ゴルツ(フランスの理論家)はまた,これまで市場化されていた多くの生産やサービスは,人々が自由な時間でおこなう活動によっておこなわれていくだろう,と見ている.
こうして徐々に賃労働は消えていくだろう.
BSJだったら,なおさらである(pp.223—224).
ベーシック・インカムを与えたら人はみな怠惰になるか,あるいは(イカれた発明家のように)馬鹿げたことばかりする人が出てくるだろうという批判がある.
しかしながら仮に[社会的調査が示唆するように]40%の人々が既に自分たちの仕事は全くもって無駄だと考えているならば,それは今よりもはるかに幸せだろうとグレーバーは応じる(pp.226—227).
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』抜粋・まとめ
タイトルは奇しくも『Re:ゼロから始める異世界生活』に似ている.
「はじめに」より (p.13)
「人類みな平等」なんてことが言いたいわけではない.ただ,本来所有できないはずの土地や水が誰かの手で管理されており,それらを使わせてもらうために一生働き続けなければならない,という今のぼくらの生活は,ちょっとおかしいのではないかと思う.
逆に,小さくてもいいから,自分の住まいがタダで持てるようになったら,どんな社会になるだろう? それまで高い家賃や住宅ローンを払いつづけるために生きてきたぼくらは,どんなことを始めるだろう? そう考えるとワクワクしてしまうのだ.そのときこそ,ぼくらは初めて,自分がこの世界で生きている意味を実感するのではないか.
【note】
資本主義社会では,かつては誰もがアクセスできるコモン (共有財産) だった富は悉く商品に姿を変え,我々はお金を稼いで商品を手に入れなければ,もはや生きていくことはできないことに対応.
1 衣服と食事を確保する
無職・無一文のきみ
しかも,お金がないと生きていけないと思い込みながら,そのお金についてもただ漫然とした考えで生きてしまっていた.お金が必要だと言いながら,「最低限,いくら稼げば生活は成り立つのか?」「その稼ぎを得るためには,どれぐらいの労働量をこなせばいいのか?」を実際にきちんと考えてみたことはなかった.
【note】
私も「『働かないと生きていけない』というのは,分かるようで分からない.それは定性的には正しいが,本当に1日の大半を労働に充てないと人は生きていけないのだろうか」と考えていた.
生産力という観点からは人類はとっくに長時間労働から解放され,ケインズが予見した余暇社会が実現しても良さそうであるが,無限に価値増殖を追求する資本主義的生産様式がそれを許さない.
機械化やAIの導入はかえって人々を仕事にあぶれされる結果となっており,また高給取りの仕事を中心に近年,いわゆる「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」が大量に生み出されている.
資本主義は人々の精神をも包摂し,「仕事はそれだけで価値がある」「働かざる者食うべからず」といった労働倫理はますます強化されている.
衣服は日々実る
「衣・食・住」のなかでもっとも大切なのは衣服である(食事ではない(次節)).
素っ裸で都会を歩けば,警察に捕まってしまうからだ.
衣服は〈都市の幸〉を利用してタダで手に入る:
- まだまだ着られる(きれいな)服が「ゴミ」として大量に捨てられている.
- 都内の教会で衣服をタダで手に入れることができる.(「週に2,3回,お祈りをする」といった条件付きではある.靴は1ヶ月通えば,100%獲得できる.)
- 代々木公園でも,定期的に服が手に入る.
- 南千住の玉姫公園では,週に2回,午前11時頃から洋服をタダで配布している.
「他人のほしがらないものが,きみの1番ほしいもの」という状態になると,実に効率よく質の高いものを獲得することができる.
そして他人のほしがらない究極のものこそが「ゴミ」である.
食べ物に困ることはない
現代の日本では,お金がなくても食べ物に困ることはない.
台東区に行けば,毎日炊き出しがある.
「突然,無職・無一文になってもぜったいに死ぬことはない」という事実は,心強い.
もちろんこれでは支援団体の炊き出しに頼っていることになるが,路上生活者はそこに安住せず,自力で狩猟採集生活を始めている.
〈都市の幸〉を駆使しながら,創造力を限界まで使い,自力で生きようとする彼らの生活を,「都市型狩猟採集生活」と呼ぼう.
【note】
しかし2007年に北九州市では,生活保護を打ち切られた男性が「おにぎり食べたい」とメモ書きを残して,アパートで餓死する事件が起きた.
この事件は当時大学生だった斎藤幸平をマルクス研究に向かわせる一因となった.
(斎藤幸平,松本卓也ほか『コモンの「自治」論』p.193)
酒,煙草,シャワーで疲れを癒やす
- 台東区にある路上生活者向けの簡易宿泊施設「エス.エス.エス.(SSS)」ではシャワーをタダで浴びられる.
- 入所はしない方が良い(給付金の大部分が必要経費として天引きされる).
- 通称・クロチャン教会でも風呂をタダで借りることができる.
- 公園の水[水道水]を使って身体を洗う.
- カセットコンロで水道水を沸かす.
- 居酒屋が何軒も入居しているようなビルのゴミ置き場では,カセットコンロや,前の日に余った食材が手に入りやすい.
2 寝床を確保し,パーティを組む
次に「住」について考える.
野宿するには一見,明るくて人通りの多い場所が安全に思えるが,そのような場所は居心地が悪く,他者から攻撃される心配もあるため,静かな場所を選んだ方が良い.
公園などの公共施設,河川敷,橋や高架の下などが狙い目である.
【note】
長年にわたって,夜間の襲撃に怯えながら野宿をしてきたホームレスもいる.
(斎藤幸平,松本卓也ほか『コモンの「自治」論』p.194)
ダンボールハウスのつくり方
- ダンボールは周りを見渡せばどこでも見つけられる(少なくともゴミ置き場にある).
- 夜の間だけダンボールで寝床を作る(1日中では撤去を命じられる).
- 春・夏は1,2枚を地面に敷き,その上に寝るだけで十分である.
- 秋・冬は寒いので「壁」を作る.
- ダンボールに穴を開けて,紐状のもので縛れば良い.
- 風を通さないようにすれば,毛布がいらないぐらいダンボールは人の体温で温かくなる.
- ダンボールで身体を完全に隠さない方が良い(姿が見えれば,攻撃をためらう).
ザ・ベスト・ダンボールハウス
上野駅付近の「完璧なダンボールハウス」の取材.
ダンボールハウスの作り方はp.45の図を見よ.
「人体と同じ大きさぐらいのダンボールハウスでは,ダンボールそのものの保温性が最大限に発揮される.」
おいしい食事のありか
賞味期限の切れた弁当を手に入れるには,チェーン店ではない個人営業コンビニを深夜零時過ぎに訪れると良い.
コンビニにかぎらず,深夜零時を過ぎると,食事を獲得できる可能性は一気に上がる.食堂の残りものをビニール袋に入れて玄関ノブに掛けてくれたり,寿司屋が酢飯を室外機の上に置いていてくれたり,パン屋で売れ残りのパンをくれたりとさまざまだ.隅田川の鈴木さんは,毎週,ある一般家庭の余った夕食を弁当箱に詰めてもらっているという.直接顔を合わせたことはないのだが,毎週決まって置いてくれるのだそうだ.(中略) ここで一つ気をつけないといけないことがある.それは,採集の際に周囲をぜったいに散らかさないようにするということだ.
コンビニ弁当もいいけれど,もっと食材にこだわりたいという人はスーパーマーケットが狙い目だ.「無報酬でゴミ捨て場の掃除をやりますから,そのかわりに余った食材をください」と直談判してみよう.これで弁当や総菜はもちろん,野菜,果物,魚,肉を大量入手できる.ぼくが上野で取材したMさんは,この方法で毎日新鮮な食材を一○人前以上もらってきては,みんなで分け合い,料理していた.
新宿中央公園の佐藤さんは,肉と魚は一切買わずに,居酒屋が集まっているテナントビルの廃棄食材から手に入れている.肉は塊で出てくるし,ブリが丸ごと一匹出ることもあるという.居酒屋の廃棄食材はかなりの大物が期待できるので,ぜひ交渉してみよう.
3 生業を手にする
もうどこかに勤めるのはよそう
自分の生業を持つ路上の人々に取材してわかったのだが,彼らの一日の労働時間はとても少ない.
普通の会社員は毎日何時間ぐらい働くのだろうか.朝九時から一○時ごろに出勤し,帰ってくるのは夜遅く.さらに,取引先との飲み会などにも出席しなくてはいけないとなると,お金も時間も使いはたしてしまうのではないか.
しかし,路上生活者たちは,朝五時から七時ごろに仕事を始め,正午過ぎには終了してしまう.そのあとの時間は,自分の好きなことに充てている.ずいぶんと充実した生活ではないだろうか.しかも,食事を三食とり,お酒も毎日飲んでいる.それで月収四万~五万円,人によっては二〇万~三〇万円稼ぐ強者もいる.
さらに言うと,会社員は家賃や光熱費なども支払わないといけない.それを給料から差し引いたら,ほとんどお金の残らない生活だ.だが,都市型狩猟採集生活では家賃も光熱費も払う必要がないので,稼いだ分のお金はすべて自分の好きなことに使うことができる.
どんな生業があるのか
〈都市の幸〉に他ならない「ゴミ」を拾って,必要な分だけを生活の糧とし,余った分を売ってお金に換える.
- アルミ缶拾い
- ガラもの拾い
- 貴金属拾い
- 小物拾い
- 電化製品拾い
- 情報屋
- 賄い夫
4 巣づくり──準備編
自分で家をつくるということ
朝から晩まで働いて,必死にローンを払って手に入れるようなマイホームではなく,世間体や見栄とも無縁な,人間にとっての巣とは何なのかを考えていこう.
人間にとって根源的に必要であるはずの家を手に入れることが,こんなにも困難であるという,この矛盾.
しかし,これを矛盾だと感じている人は少ないようで,あいかわらず家は高い値段で売買され,買うことのできない人は賃貸住宅に住んでいる.
さらに人間が土地を所有し,それを売買するというのは根本的に間違っており,少なくとも人が住むための土地については,すべての人が手に入れられるようでなければならない.
(モンゴルやネイティブアメリカン,アボリジニの社会にはそもそも,土地を所有するという考え方が存在しない.)
まずは土地を見つける
東京であれば,多摩川と荒川の河川敷では今でも,新しく家を建てたとしても,事実上,誰からも何も言われない(これまで河川法第26条が実際に適用され,罰則を受けたというケースは存在しない).
すべての土地が誰かに所有されているというのは思い込みで,日本でも実はまだ,誰でもゼロ円で自由に家を建てることができる場所があるのである.
インフラの考え方を変える
我々の家は電気,ガス,水道といったインフラが完備され,その基本使用料を払わされている.
他方,路上生活者は使う電気の量を把握して,乾電池やバッテリー,発電機を用いて,それに見合うだけの電気を手にしている.
「12ボルトで動く小型テレビは,自動車用のバッテリー1台を使えば,1日5時間観たとして10日間ぐらいもつ」といったことが具体的に分かっているから,常に電線と繋がっていなくても彼らは心配しないのである.
設備と家を分離させる
そもそも本来,家とインフラはセットではない.
【(自動車用の)12ボルトバッテリー】
- 自動車用の12ボルトバッテリーは,ガソリンスタンドで廃棄処分用のものを入手できる(p.77).
- 電化製品の多くは(表示を見ると分かるように),12ボルトバッテリーで動く.(しかも家庭用の100ボルトの電源を使うよりも効率が良い.)
- 12ボルトバッテリーは直流なので,交流電源でしか動かない家電製品には使えない.(ただし直流を交流100ボルトに変換するインバーター(変圧器)を〈都市の幸〉として手に入れ,使っている猛者もいる.)
- 30センチ四方の1万円のソーラーパネルでバッテリーを蓄電し,12ボルトのテレビ,ライト,ラジオなどをすぐに使うことができた.(太陽光発電は,今の家庭用電源として使うのには効率が悪く,むしろ路上向きである.)
- バッテリーの希硫酸水は使っているうちに減っていく.その補充用に売られている液体は実はただの蒸留水であり,代わりに水道水を入れても問題なく使える.
【発電機】
デンヨーの発電機はどれだけ使ってもエンジンオイルが汚れない (ホンダの発電機より良い).
ただし高価であり,12万円する.
ガソリン代もかかる.
【水道】
公園の水飲み場の水は家庭の水道水と同じ水質であり,トイレも毎日掃除されている.
公園の水の個人利用は,東京では条例で禁止されているものの,罰則があるわけではないので,実質的には問題なく使える.
(そもそも水は誰のものでもない.)
多摩川沿岸に15年以上住む,通称ロビンソン・クルーソーによると,現在の東京の水道水は,ダムに溜められた汚い泥水を塩素で殺菌したものであり,まずくて飲めない.
これに対し雨は2時間も降れば大気中の不純物を洗い流してしまうため,その後の雨水をバケツに溜めれば純粋な水が得られる.
実際この水を(念のため沸騰させてから)飲んでも,15年間1度も腹を壊さなかったという.
またこの水は普通の水道水と違って,2ヵ月置いておいても腐らない.
5 巣づくり──実践編
壊れても建て直せる家を
路上生活者のつくった家は台風や地震が来てもビクともせず,たとえ倒壊したとしても,タンコブができるぐらいの被害で済み,容易に修理してつくり直すことができる.
これに対し「商品」としての家は過剰に頑丈に作られた重い物体に過ぎず,動かしたり,不要になったときに燃やしたりすることはできない.
人はそんなものに何千万円も払っているのだ.
隅田川の鈴木さん
鈴木さんは初め,3人の仲間とともに橋の下でダンボールを敷いて寝ていた.
すると警官が来て「橋の下は公園の敷地で警察の管轄になっているから追い出さなくちゃいけない」「隅田川の遊歩道は管轄外だから,そこに住みなよ」と言われたという.
こうして警官の“お墨付き”を得て,遊歩道の横にある植え込みの中に4人が同居できる小屋を作った.
その作り方はp.118の図に要約されている.
- 基本的な材料となる竹とブルーシートは,祭りの翌日にたくさん捨てられている.
- ノコギリだけは借りた.
- ビニールシートを少しだけめくれば中に入れるため,玄関は要らない.
- 食品を上から吊るすのは,ネズミに食べられるのを防ぐためである(隣人が猫を飼い始めてからネズミはいなくなった).
その後,鈴木さんはさらに改良された1人用の家を作った.
音がしない乳母車を押し,不燃ゴミの日に捨てられている大工道具(ノコギリ,トンカチ,ノミ,クギなど)を拾い集めた(神社の祭りの後も狙い目である).
木造住宅の解体現場で廃材をもたったり,工事終了直前の工事現場で余った端材をもらったりして,木材(柱用:垂木・桟木,壁用:ベニヤ板)を集めた.
銭湯でも燃料に用いているベニヤ板が手に入る.
2件目の家の完成図がp.124にある.
多摩川のロビンソン・クルーソー
どれもが驚異的な内容であり,全文を引用したいところだが,それは控えよう.
特筆:ほとんどの野草は食べられる.(p.129)
代々木公園の禅僧
特筆:病気になっても区役所の福祉課に行けば,タダで病院を紹介してくれる.炊き出しの現場に医者が来ているときもある.(p.143)
6 都市を違った目で見る
著者が2000年に初めて出会った隅田川の「〇円(ゼロ円)ハウス」のつくりが,p.166の図に示されている.
ソーラーパネルで発電した電気は,いったん自動車用の12ボルトバッテリー2台に蓄えられる.
月に一度,一時的に撤去しなければならないものの,生活することは暗黙の了解で許可されているという.
マルクス・ガブリエルほか『資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐』第3章からの抜粋
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マルクス・ガブリエルほか『資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐』の第3章は、経済ジャーナリストのポール・メイソン(以下PM)と、斎藤幸平の対談となっている。
(マルクス・ガブリエル/マイケル・ハート/ポール・メイソン/斎藤幸平、2019、資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐、株式会社集英社、東京。)
これまでの約50年周期の景気循環の波(いわゆるコンドラチェフの波)に異変がなければ、1990年代から始まっていた情報テクノロジー(以下、情報技術)の発展が、第5波として資本蓄積を牽引するはずだが、実際には実体経済は停滞したままであることにPMは着目する。
そして、それは情報技術による経済が資本主義と共存できないからであり、資本主義は情報技術によって崩壊するとPMは主張する(pp.233–235)。
その理路を以下に抜粋する(pp.241–244)。
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斎藤
「潤沢な社会」との関連で言えば、あなたは、こんなことが起こると予測もしていますね。モノでも、サービスでも、一単位分を増やして生産するために追加的にかかる費用(=限界費用)が、この先どんどん減ってゼロに近づいていくだろうと。
なぜ、そのような限界費用の逓減(ていげん)が起きるかと言えば、情報技術があれば追加的なコストなしに、瞬時に完璧なコピーの生産ができるからですよね。
わかりやすい例は音楽産業でしょう。インターネットを通じて、音楽が簡単にダウンロ ードされたり、シェアされたりするようになった。録音した音楽をCDにして販売するのが主流だった時代には、ディスクを製造しCDショップに流通させるために、一枚一枚に対してコストが余計にかかりました。
ところが、今では、一度音源さえ製作してしまえば、追加の費用をほとんどかけずに、世界中に広げていくことができます。同じことは、新聞・書籍、あるいはオンライン教育についても言えるはずです。
また、モノに関しても、情報技術によって生産コストを下げていくことが可能だとあなたは言っていますね。オープンソースに基づいた生産に関する知のシェアによって、分散的・水平的生産が可能になる。さらには、太陽光などの再生可能エネルギーはパネルの原価償却後には無償のエネルギー源になるし、IoTの発展によって、在庫管理や輸送などが最大限、効率化されていく。木材やガラスなど、素材のリサイクルも徹底化され価格が下がっていくと。
たとえば、オープンソースのプログラムで駆動する3Dプリンタなどがわかりやすいでしょうか。3Dプリンタは小さなモノの立体コピーをつくるだけにとどまりません。プリンタの技術を使って、住宅の建築も可能です。
実際、一棟六〇万円ほどの価格で、住宅を供給するプロジェクトをカリフォルニアのデザインスタジオなどがすでに始めています。しかも施工にかかる期間はわずか二四時間だといいます。こうした技術がさらに発展、普及すれば、何千万円もかけて家を建てるのがばからしくなる。私たちの人生設計や働き方は、大きく変わるでしょう。
こんなふうに、情報技術のおかげでモノやサービスの限界費用がゼロに近づくようになり、市場システムが大きく変化するだろうとあなたは主張している。つまり、来たるべき「潤沢な社会」では、多くのモノやサービスが無料になっていく傾向がある。
PM
そうです!
斎藤
ところで、「第三次産業革命」の理論的主導者であり、メルケル独首相のアドバイザーとしても知られる未来学者ジェレミー・リフキンによる『限界費用ゼロ社会』という本をご存知ですよね。
PM
はい。限界費用ゼロ社会に関しては、私とリフキンの重なる部分はおおいにあります。情報技術の発展で、限界費用がゼロになっていった時、何が起こるのか。それは、「価値の破壊」です。そして、このことが資本主義にやっかいな問題を生みだす可能性をリフキンは正しく認識しています。
斎藤
たとえば住宅の建築コストがゼロになれば、これまで数千万円した家の価値がゼロになっていくというのも「価値の破壊」ですね。
PM
情報技術に基づいた生産は、社会を便利にしていくわけです。飛躍的に実用性・効用を増大させますからね。ところが、実用性・効用の増大は、最終的に資本主義の現在の構造を突破するところまで突き進むのです。
斎藤
住宅以外にも、あらゆるモノの完璧なコピーが情報技術によって瞬時に製作され、その商品のコストがほとんどゼロとなり、無料のモノやサービスがあふれることになれば、市場における価格メカニズムそのものが機能しなくなる。つまり、利潤の源泉も枯渇してしまう(図3[省略])。
PM
しかも、ひとつの企業が無料に近いモノやサービスを開発・提供したなら、他の企業も追随せざるをえない。
こうして、さまざまな分野で限界費用がゼロになり、モノやサービスは無料に近づき、「潤沢な社会」をつくるための条件がそろっていくというわけです。
そして、あらゆるところで利潤の源泉がなくなれば、資本主義はこれ以上、資本を増やすことができないのだから、終焉を迎えることになる──。
ポストキャピタリズム社会の到来です。
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次いでPMは、情報技術の経済社会への影響がポストキャピタリズムへの道を切り拓く要因を、以下の4点にまとめている。
(1)限界費用ゼロ
(2)高度なオートメーション化と労働の定義の変化
(3)正のネットワーク効果
(4)情報の民主化
以下では特に(2)に関する対談(pp.246–249)を抜粋する。
====================
PM
それから、情報技術はこれまでのレベルとは違う、高度なオートメーション化を急速に進めています。製造プロセスのありとあらゆる部分が、オートメーション化されようとしているのです。
しかも、モノをつくる道具の製作自体もオートメーション化され、ロボットが人間より正確に道具をつくるようになってきている。私たちが目撃しているのは、みずからのニーズに応じて、生産を行うことのできる機械の出現なのです。
斎藤
生産過程において人間の労働が不要になれば、強制的な労働から人間が解放される可能性が出てきますよね。労働時間を大幅に短縮できる可能性がある。
PM
そう、大幅に余暇が増える可能性があるのです。
このオートメーション化と並行して生じている重要な変化は、仕事の時間と仕事をしていない時間(「生活」)の区別が曖昧になってきているということです。
たとえば、スマートフォンやタブレットなどのデバイスを気軽に持ち歩けるようになりましたよね。それを使って、いつでもどこでも、まじめな労働と楽しい非労働の両方を行うようになっています。
斎藤
高度なオートメーション化が、労働時間を短縮し、余暇を増やす。それと並行し情報技術が、労働の定義を変え、労働と余暇の関係性も変えていくというわけですね。
PM
そうなんですよ。私が自宅でウィキペディアの項目に書き込みをしていたら、これは労働なのか、余暇の趣味なのか……。
斎藤
趣味だと多くの人は答えるのではないでしょうか。
PM
では、もしどこかの編集部に私が出かけていって、そこで記事を書いたら、どうでしょう。これは明らかに仕事ですが、ウィキペディアに書き込むのも、事実を確認しながら、わかりやすい文章にまとめるという点では、同じ作業です。ところが、ひとつは仕事とみなされ、もうひとつは余暇の趣味だとみなされる──。
けれども本当は、ウィキペディアへの書き込みも余暇に行う個人の趣味ではありません。単に報酬が伴わないというだけで、社会的で協働的な“仕事”[原文は圏点で協調]なのです。仕事と賃金が切り離されるようになってきているのです。
斎藤
たしかに日常のさまざまな分野で、今は趣味とみなされている、社会的協働がすでにたくさん存在していると言えそうです。
今のお話で鍵となるのが、“知識”[原文は圏点で協調]ですよね。知識は本来、一人ひとりで独占できるものではない。というのも、知識を発展させるためには、他人から学び、みずからの知見を議論や批判を通じて、洗練させていかねばならないからです。知識には、他者との社会的協働という媒介が不可欠で、その意味で、最終的な知識は、誰かひとりに帰属させることはできません。今の社会では、特許などの制度によって、共有を妨げているわけですが。
「だからこそ、もっと知識をオープンなものにしていこうという動きがいろいろ出てきています。ウィキペディアもそうですし、リナックスも、そのような社会的協働が生み出す新たな可能性の例としてしばしば取りあげられますね。
さらに言えば、情報技術はシェアリングエコノミーのような新しい協同型経済のあり方も生み出しました。ビジネス化された自動車のシェアや民泊などが目立っているので、誤解されやすいのですが、本来のシェアリングエコノミーは利潤や排他的所有を追い求めるのではなく、むしろ、他人とのつながりや共有を重視している。
いずれにせよ、知識やサービスがネットワーク化を通じて実現するようになってくると、生産過程も生産物も排他的独占とはなじまないことが判明するわけです。その結果、資本主義の根幹部にある「私的労働」や「私的所有」という考えが揺らぎ始めています。
PM
そう、ポストキャピタリズムへ移行するための鍵のふたつめは、そうした社会的な知に媒介された協働的な仕事が主流になることです。国家や市場から人々の活動を切り離して、「誰にも所有されない生産物」(non-owned products)を作り出すことが生産の主流になれば、資本主義は終わります。
斎藤
この話は、マイケル・ハートとも議論した〈コモン〉の概念を彷彿とさせますね。
資本主義への皮肉
- 人類がお金を稼がないと生きていけない存在へと進化したのは,ここ数百年前のことである.
- タダより“安い”ものはない
内田樹『コモンの再生』抜粋ノート
内田樹、2020、コモンの再生、株式会社 文藝春秋、東京。
「コミュニズム」は「共産主義」と訳すより「共有主義」の方が分かりやすい (p.6)
「共産主義」という訳語だと、僕たちにはぴんと来ません(日常生活に「共産」なんて普通名詞がありませんからね)。けれども、マルクスたちが「コミュニズム (Communism)」という術語を選んだときに念頭にあったのは、抽象的な概念ではなく、英国の「コモン」、フランスやイタリアの「コミューン (Commune)」という歴史的に実在した制度だったのです。
ですからもし、最初にマルクスを訳した人たちが「コミュニズム」を「共有主義」とか「共同体主義」とか「意訳」してくれたら、それから後の日本の左翼の歴史もちょっとは相貌が違っていたかも知れません。
ベーシック・インカムについて
「フリーライダーを許すな」と言っていた人たちは身を挺して「フリーライダー」になるだろう (p.42)
でも、今の日本だと、「働かなくても食っていける」制度を整備したら、かなりの数の人は無為徒食の方向に崩れてゆくような気がします。というのは、多くの人が「生活保護受給者は遊んでいる」と罵倒しているからです。ということは、そう罵倒している彼ら自身が職を失って生活保護受給者になった場合、自分のこれまでの主張の正しさを証明するためには「ごろごろ無為徒食」してみせるしかありません。公費で扶養されて無為に過ごさないと、自分がこれまで主張していたことが間違っていたことになる。それでは困る。ですから、生活保護に反対し、「フリーライダーを許すな」と言っていた人たちは身を挺して「フリーライダー」になってみせないと首尾一貫しない。だから、きっとそうなると思います。英国の「アンダークラス」もあるいはそういう心理の働きの帰結なのかも知れません(よく知りませんが、ありそうな話です)。
社会福祉制度において、社会的弱者に屈辱感を与えるのは本末転倒 (pp.44–45)
社会的流動性を高めるためにこそ社会福祉制度はあるべきです。だから、公的扶養の代償として「恥じ入れ」「身の程を知れ」「お前がいま釘付けになっている最下層から出るな」ということを受給者に求めるなら、ろくな制度じゃないと僕は申し上げているのです。
ベーシック・インカムが制度として成功するかどうかを決めるのは制度そのものの合理性ではありません。その制度を導入する社会そのものがどれほど開放的か、どれほど流動的か、どれほど他者に対して寛容か、どれほど温かいか、それにかかっていると思います。
本当に必要な政策は「教育の全部無償化」
(pp.49–50)
昔は大学の授業料は本当に安かったです。僕が入学した1970年、国立大学の授業料は年額1万2000円でした。月1000円です。入学金が4000円、半期授業料6000円でしたから、1万円札を窓口に出すと大学生になれた。
(中略)
ですから、国公立大学なら、親からの仕送りなしで苦学ができました。私立大学でも年額10万ぐらいでしたから、バイト仲間では苦学どころか、親に仕送りしていた学生さえいました。
(中略)
でも、この「苦学できる」というシステムそのものが実は秩序壊乱的な要素をはらんでいました。60年代末から全国で学園闘争があれほど広がった理由の一つは、学生たちのふるまいを親たちがコントロールできなかったことにあります。だって、苦学できたから。親が子どもの生き方にあれこれ干渉してきたら「じゃあ、いいよ。授業料自分で出すから、もう口出すな」と啖呵(たんか)を切ることができた。だいたい地方出身者は親元に帰るのは盆と正月くらいで、子どもたちが大学で何をしているか、親には知る術もなかった。
だから、学園闘争が終息した後に政府部内でも「どうやって学生たちをこれから抑え込むか?」について知恵を絞ったのは当然なんです。そして、そのときに二つアイディアが出た。
一つはキャンパスを郊外に移転すること。
(中略)
そして、もう一つが授業料値上げです。70年代前半に国立大学の授業料が3倍に引き上げられました。別に値上げする財政的必然性なんかなかったんです。だって、まさに高度成長期まっさかりで、政府にはじゃんじゃん税金が入ってきた時代なんですから。国立大学の授業料を月額1000円から3000円に上げるような財政的必要はどこにもなかった。
【note】学費のためにアルバイトをするというのは、昔は現実的な話だった。
(pp.51–52)
だから、授業料値上げによって変わったことが二つあったのです。
一つは受験生の進路決定権が完全に親に握られたこと。1万円で国公立に入学できる時代なら、どこの大学のどこの学部に行くか、親と意見が違っても、子どもが自己決定できた。「だったら、いいよ。自分で金出すから」と言えたからです。1万円ならお年玉貯めた豚の貯金箱を叩き割れば出てくる金額です。 授業料が上がるにつれて、しだいに「そういうこと」ができなくなった。
もう一つは学生たちへの監視が強化されたこと。親たちは相当額の「教育投資」を強いられたわけですから、それを回収しようと考える。そして、子どもたちの暮らしぶりをうるさく監視するようになった。ちゃんと勉強しているのか、単位は取れているのか、4年で卒業できるのか、離れていても子どもの暮らしぶりを気にするようになった。
授業料値上げがめざしていたのは一言で言えば「学生たちから大学生活における自己決定権を奪う」というものでした。数十万人の学生たち一人ひとりを監視することは大学にも政府にもできません。そんなマンパワーはない。でも、授業料を大幅に値上げしたら、学生たちの監視を親たちが代行してくれる。授業料値上げで政府は学生管理をアウトソーシングしたのです。そうすることで管理コストを劇的に軽減した。当時の文部省にはなかなか知恵者がいたわけです。
(p.55)
だから、僕は大学には本当に無償化してほしいと思います。その結果、何十万人という若者たちが「そんなことやったって、食えないぜ」という呪いの言葉を吐きかけた人たちに対して、自分の選択の正しさを証明するために「いつか見てろよ」と必死で勉強するようになる。それによって日本の集団的な知的パフォーマンスは一気に向上するはずです。ここまで国運が衰退した日本をV字回復させる起死回生の方法は「学校教育の全部無償化」です。僕はそう声を大にして申し上げたいですね。
日本の「落ち目」について:若い人たちの地方移住や帰農・就活からの撤収 (p.70)
だから、「落ち目だ」と気がついた人たちから違う生き方を探し始めています。それを「悲観主義」だとか「衰退宿命論」だとか非難する人がいますけれど、違いますよ。体調が悪いときには「体調が悪い」ということを認めて、横になって身体を休めて、栄養を摂って、治療法を探すしかないんです。「違う生き方」は傷んだ身体に対する治療であり、気遣いなんです。若い人たちの地方移住や帰農や就活からの撤収はそういう流れだと思います。
そういうことが起きていることを多くの国民は知りません。新聞もテレビもそのことを報道しないからです。別に悪意があって報道しないわけではありません。「治療」が始まっているということそれ自体に気がついていないのです。メディアそのものが病んでいるからです。病んでいるのに「健康だ」と言い張っているので、他人がしている「治療」行為が意味あるものに見えないのです。
でも、「落ち目」だからと言って、少しも絶望的になる必要はありません。落ち目の局面ではそれに相応(ふさわ)しい「後退戦」の戦い方があります。「ありもの」をていねいに使い延ばして、フェアな再分配の仕組みを作れば、まだまだ日本は世界有数の「暮らしやすい国」であり続けることができます。みんながそれに早く気づいてくれるといいんですけど。
【note】DIYやある種の異世界アニメ(古典としてはモリス『ユートピアだより』などか)の流行りもその表れか
アーロン・ベナナフ『オートメーションと労働の未来』序文より
アーロン・ベナナフ『オートメーションと労働の未来』の全体を別のページで機会を改めて要約する.
ここでは「日本語版への序文」を部分的に引用するにとどめる (強調は引用者):
いま私たちに必要なのは経済と社会のより広範な変革のために闘うことである。それは、労働者と広範な市民社会を基盤とする、大衆的な変革運動によってのみ達成されるであろう[民主的連帯を通じたボトムアップ型の社会運動に対応]。本書『オートメーションと労働の未来』において、私は次のように述べた。オートメーション論者の夢であるポスト希少性の世界[あらゆるものが無償で手に入る世界]に到達することは実際に可能であるが、それは資源の配分や生産の仕方を抜本的に再組織することができた場合のみである、と[テクノロジーの発展を待つだけでは,富を囲い込もうとする資本の側の抵抗に勝てない]。
私たちは投資のプロセスを集団的に制御し、それを株価の最大化ではなく人々の実際のニーズを満たすことに向け、経済的な意志決定の方法を徹底的に民主化しなければならない。人々が生活するのに必要な財やサービスの大部分を無償で提供可能にするための条件は整っている。家事労働やケア労働のように現状では公式の経済活動とされていない労働も含め、すべての労働を再分配し、労働量を減らすことは可能である。このような変革によって、人々が自分の人生を自由に決定することのできる、自由の領域が拡大されていくであろう。
今日、私たちは、この目標に近づくために利用できるテクノロジーをかつてないほどに有している。私たちが直面している主な障害は、本質的には、技術的ではなく社会的なものなのである[皆が望めば,資本主義は今すぐに終わらせることができる]。
贈与における承認欲求の肯定
コミュニズムは贈与の世界と言える.
ところが一般に人は他者に何かを与えることを通じて,自分のことを相手に認めさせたいという欲求を抱いているなら,それは偽善に基づいた世界だ,という反応が当然考えられる.
しかしそれは批判になっていない.
太古よりそのような承認欲求や自己顕示欲は贈与と不可分に結びついており,贈与の1つの重要な原動力となってきた.
それは自然であり,開き直るようだが,それで良いのである(欲求を露骨に表出せず,謙虚さの内に隠す限りで).
むしろそのような人間的な感情を認めなければ,極端な利他主義・全体主義と功利主義の2項対立に陥り,身動きが取れなくなってしまう.
そのどちらも社会の理想として掲げることはできない.
(参考:山本眞人『コモンズ思考をマッピングする ポスト資本主義的ガバナンスへ』)
『算数 小教程』の序文など
『算数 小教程』の序文に収録した文章を手直しして載せておく.
第I部(基礎編)では受験に特有の「思考力を問う問題」という名の,事実上,背景知識がなければ解けない無理難題や,パズル要素の強いペダンティックな知的お遊びは,基本的にあえて扱わない.
もちろん高尚な問題が解けるのは結構なことだが,誤解を恐れずに書けば,入試の難問・奇問が解けなくても,必ずしもその後の勉学に支障はない.
したがって受験勉強は決して「誰もが乗り越えるべき試練」だとは言えない.(そもそも一般論として,他人に何かを強制することを正当化できる根拠など存在し得ない (付録:当為命題の虚構性).)
付録「Spinoza描像──受験の正義をめぐって」の序文
いわゆる「受験戦争」の激化の背後には,資本主義の下での競争原理があると考えられる.
しかるに試験の難度に関わらず,「敗者が落ちぶれるのは努力を怠った本人の自己責任であり,それは人間としての価値が低い証拠である」という資本主義的(とりわけ新自由主義的)イデオロギーはそれ自体で,事実認識として容認できない.
そこには哲学のかけらもないことを,本付録で手短に説明する.
また資本主義に代わる社会像として,コミュニズム論を展開する.
それは社会の富が脱商品化され,コモン (共有財産) として民主的に自治・管理される社会であり,そこでは「各人は能力に応じて貢献し,各人は必要に応じて取る」ことが許される.
本稿のサブタイトルは「教育の脱商品化に向けて」であるが,本稿を書き始める動機の1つは,確かにそのようなところにあったのである.
(もっとも本稿を公開したところで「焼け石に水」であることは承知している.ただし表紙にリンクを載せたページで公開している理論物理のノート群を合わせれば,多少,事情は変わってくると期待したい.)
いずれにせよ,資本の増殖を目的とした強制的な勉強や労働が将来,各人の自由な発展に置き換えられ,それが他人からの怨嗟を招く現在の能力主義・格差社会と違い,万人の自由な発展ともなるような社会が訪れることを強く願っている.
算数についての備考
算数では全般的に応用の効く方法として,未知数を文字で置いて立式する習慣を身に付けると良い(算数の問題の大部分は1次方程式を解くことに帰着する).
これは「相当算」「年令算」といった各論の解法を個別的に覚えずとも,それらを統一的に理解することを可能にする.
このことは問題の意味レベルの個別的な文脈に依らずに,計算を機械的に行うことができるという事情に依っている.
それは良い意味での思考の省略である.
逆にそうした代数計算を迂回するには,奇抜な発想(や,場合によっては帰納的推論などによるごまかし)が必要であり,それを「思考力を問う問題」として小学生に押し付けるのは責任転嫁というものである.
教育が脱商品化されたら
もし例えば大学の授業内容がネット上で無料で独学できるようになったら,皆,高い学費を払って大学に入学すること,さらには,そのために過酷な受験勉強を乗り切ることさえ,馬鹿馬鹿しくなるだろう.
実際,今の学生が授業に出席するよう指導・管理されているのは,学費負担者(≒親)が「教育商品」の買い手の権利として,自分の子供に授業を受けさせるよう大学に要求するようになったことが主要因であるにすぎない(斎藤幸平,松本卓也ほか『コモンの「自治」論』pp.41–43).
また周知のように受験勉強は本物の学問と違ってくだらないものであり(そこは共通認識として良いだろう),昨今の入試の難問・奇問が解けなくても,必ずしもその後の勉学に支障はない.
したがって大学教育を脱商品化しさえすれば,原理的には皆,受験勉強を飛ばして大学レベルの専門分野の学習に無料で進めるはずである.
教育が脱商品化にはそれだけのインパクトがある.
もちろん友人と学問について議論する場を持つことも重要である.
しかしながら空間を新自由主義的に再編し,学生を孤立させて管理している今日の大学に,そのような精神的充実の場を求めることは難しい.
また大学によるオンライン授業の導入も,他人との交流を不要にし,学生を孤立させるテクノロジーという側面を持つことには注意が必要である(斎藤幸平,松本卓也ほか『コモンの「自治」論』pp.39–43).
教育までもBSJ化
教育はどちらかと言えばエッセンシャルな仕事に分類されるにも関わらず,例えば細切れの単純作業として答案の添削業務をアウトソースすれば,それは立派なブルシット・ジョブになり得る.
さらにデジタル添削という形で使い勝手の悪いテクノロジーが導入され,できることが制限されれば,与えられた「構想」(指導要領)の範囲内で業務を「実行」する他なくなる.
テクノロジーは労働を楽にするどころか,かえって資本家による労働者の管理を強化してしまうというのは,こういうことである.