大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』まとめ

大澤真幸,2021,NHK出版新書652 新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出,NHK出版,東京.
以下の要約では個人的な判断に基づき,内容を多少,取捨選択している.

(まえがきより)

新型コロナウイルスのパンデミックのような大きな危機の中では,「それだけがまさに可能な現実だ」と見なされていたことこそが実は不可能な理想,ありえないユートピアだったのではないか,と思えてくる.
ここで唯一の可能な現実とされていたこととは,資本主義である.
こういう状況の中で,真に現実主義者であるとは,資本主義を前提にしたときにはとうてい不可能なものとされていた「理想」を維持し続けることではないか.
理想主義者としての精神を保つことこそ,真の現実主義者である.
[以上は資本主義以外の可能性を模索することに向けられた,「理想ばかり語るな」という批判に対する痛快な反論となっている.]

第1章 人新世のコロナ禍

(人新世)

現在は,地質学的には人新世にあたる.
人新世とは,人間の活動が,生態系の状態を決定する最も重要な要因となった時代という意味である.
これは人間による自然の支配が,地球の生態系の大規模な破壊へと導く可能性を含意した概念である.

(破局の予兆としてのCOVID-19)

人新世はさまざまな原因から,人間がウイルスに感染する確率が高まる時代である.
例えば経済発展を求めて人間が自然環境の奥に入れば,野生動物の持つ未知のウイルスと接触する確率が高まる.
また地球が温暖化すれば,氷床の中に封じ込められていたウイルスが解放され,動物や人間に感染することも考えられる.
新型コロナウイルスのパンデミックはその前兆と理解しなければならない.

(キューブラー=ロスの5段階/破局に対する第5ステージ)

キューブラー=ロスによれば,末期がんなど死が確実な病を得た患者が,最終的に死の事実を受け入れ,覚悟を定めるまでに,一般には5つの精神のステージを経る.
仮にこれを人新世の破局,生態学的危機に対する社会の反応に適用すると,各ステージは次のようにまとめられる.
1.「否認」……危機を認めない
2.「怒り」……先進国の大企業が大量の化石燃料を使っていることへの怒りなど
3.「取引(バーゲニング)」……いくらか環境に配慮する代わりに「持続可能な発展」を目指す,破局の先延ばし
4.「抑鬱」……「もう手遅れだ,人類は滅亡するしかない」という絶望
5.「受け入れ」……破局の不可避性を一方では認めつつ,取引的な妥協を超えた抜本的な変化を提案
この中で第5のステージだけはまだ,現実の態度には見られない.
第5ステージとは,具体的には何を実践することなのか.
何を目指すことなのか.

第2章 普遍的連帯の(不)可能性

1 簡単に理解できることなのに……

(まえがきp.16より)

[新型コロナウイルスの]パンデミックを通じて誰もが学んだことは,国民国家を超えた,国民国家の主権を相対化する普遍的連帯が必要だ,ということだ.
これは誰にでもすぐに理解できることだが,パンデミックを通じて生じていることは,実際にはまったく逆のことだ.
つまり,国民国家の間の利己性がむしろ強化され,国民の中の,さらに地球的なレベルでの経済的な不平等がより顕著なものになっている.
その結果,私たちは,パンデミックを通じて納得したことを現実のものにするような断固たる行動をとることができずにいる.
何かがそれを阻んでいるのだ.
それは何なのか.

5 禁欲の資本主義

(GDPと株価の矛盾)

コロナ禍によってGDPはマイナス成長に転じたのに対し,奇妙なことに,経済の状態の指標であるはずの株価は,むしろ上がっている.

(『サイコ』のように)

株価の上昇は市場が資本主義の破局を直視できず,実体経済の裏付けなしに「資本主義はまだ生きている」という想定で,株が普通に売買されていることによるものである.
言い換えれば株価の上昇は資本主義の破局に対する,集合的で徹底した「否認」のメカニズムが働いていることを示している.

(世俗内禁欲のメカニズム)

資本主義の特徴は禁欲だ.
資本主義で勝者になるには,獲得された利益はあらためて投資されなくてはならず,十全な享受,完全な満足は,そのたびに先延ばしにされなくてはならない.
このような禁欲と投資は,後にやってくる利潤が確実にあるという前提によって可能になっている.
(これは終末における救済を前提とするプロテスタンティズムに比せられる.)
しかし実際には投資を繰り返す以上,投資を回収する真の“終末”はやってこない.

(新商品と廃棄物のような)

資本主義は,階級という格差を必用とする.
と言うのも,資本主義というシステムに参加している者は皆,自らが救済されることを──具体的には利潤を得て裕福になることを──前提として先取りしつつ行動する.
しかしすべての人を,未来における救済へと誘惑するためには,一部の人だけが救われる階級的な格差を維持しなくてはならないからである.
プロレタリアートは,禁欲と自己犠牲だけを実行し,救済はされなかった人々だと言うことができるだろう.
なお「ブルジョワジー/プロレタリアート」という階級の区分は,「(成功した)新商品/ゴミ」という商品上の対応物を持つ.

(答え──どうして普遍的連帯への歩みは始まらないのか)

本来の資本主義における禁欲とは違い,コロナ危機の中で求められたほぼトータルな経済活動の停止には,来るべき救済──資本主義的には将来の利潤──の幻想は与えられていない.
このように資本主義を(ほぼ)否定するような経済の停止を続けるためには,(逆説的であるが)「資本主義は死につつあるわけではない」という確信[と,それを前提とした救済の幻想]が必要である.
(先に見たように,この資本主義への執着が株価の上昇の背景にある.)
そして資本主義(階級の格差と分断を必用とする)を手放せないことが,普遍的連帯へと踏み出せないことの原因である.

第3章 惨事便乗型アンチ資本主義

1 ソフィーの選択のように

新型コロナウイルスのパンデミックの中で,われわれは経済活動と感染症対策の選択を迫られた.
ここでわれわれは一方をとって,他方を犠牲にする,という選択に満足してはならない.
何としてでも,どちらにも執着し,両方をとらなくてはならないのだ.

2 ベーシック・インカムは可能か

(さまざまな給付金)

仕事を失った人,仕事を休まざるをえなかった人に,生きるうえで必要な額にあたる金額を支援することができれば,経済と生命(健康)の両方をとったことになる.
実際コロナ禍の下,日本を含む多くの国で給付金が支給された.

(ベーシック・インカム)

しかし,これらの金額は,コロナ危機の規模との関係では明らかに足りない.
何よりも給付の期間が十分に長くなくてはならない.
そこでもし現金給付を長期化・恒常化させると,それは「ベーシック・インカム」と呼ばれる政策に近づいていくだろう.
ベーシック・インカムとは,すべての個人に,いかなる条件もつけずに定期的に給付される現金である.

(財源の問題)

しかし仮に日本で月額12万円ほど(現在,単身世帯に支給されている生活保護の金額の平均)のベーシック・インカムを導入するとなると,財源を純増税でまかなうには,消費税を72%まで引き上げなければならない.
(ちなみにベーシック・インカムを実現するために,代わりに現存の社会保障を廃止すればよいという主張があるが,それは本末転倒の論外な主張である.と言うのも,社会保障制度を縮小すれば,1人の人間がまともな生活をするのに必要なお金はますます大きくなる,つまり給付されるべきベーシック・インカムの金額をより高くしなければならなくなるので,財政的な負担はかえって大きくなるはずだ.)
すると,結局,政府は当面,増税をせず国債を発行することを通じて,必要な資金を用意するしかない.
とは言え,国債は無限に発行できるものではない,と一般には考えられている.
ほとんどの経済学者は政府の財政が赤字であっても,経済が破綻することはないと考えているが,同時に財政赤字が何らかの閾値を超えると,増税やハイパーインフレーションといった,何かよからぬことが起きると考えているのである.
ハイパーインフレーションとは貨幣の価値が極端に下がることであり,すべての国民の貯金が,ある日突然盗まれるようなものである.

(都合のよい経済理論)

ところが「現代貨幣理論MMT:Modern Money Theory」という異端の学説によれば,政府はいくら借金をしても大丈夫である.
MMTは,われわれが信じたいことを信じさせてくれる,とても都合のよい理論だ.
これに賭けてみたらどうか.

3 現代貨幣理論の盲点

(負債としての貨幣)

ただしこの理論[MMT]には,ひとつ──ひとつだけ──欠点があることを説明する.
まず貨幣は政府の債務証書であるというMMTの認識は正しい.
債務証書としての貨幣を政府に突き付けて,借金を返せ,と言っても,政府は何も返してくれない.
(何か返すとしても,貨幣で返すしかないが,それこそ当の債務証書である.)
このように貨幣は,政府にとって,返す必要のない負債だということになる.
政府がいくら借金をしても大丈夫である,とする理論の究極の根拠はここにある.

こうしたからくりが成り立つためには,しかし,債務証書である貨幣が流通しなければならない(流通していない,面識のない誰かが発行した債務証書は信用されず,貨幣として使われない).
政府が発行した債務証書が流通するのは,租税が動因となっているからである[政府に税を納めるために,人々は貨幣(政府が発行した債務証書)を得ようとする].
よって政府が発行した債務証書が流通する最終的な原因は,人々が政府に税を納めなくてはならないと思っていることに求められる.

(税の謎)

だが,われわれはどうして税を納めなくてはならない,と思うのだろうか.
その理由は,国家による物理的暴力によっては説明できない.
逆に,納税しない者への暴力が正当化されるのは,まさにわれわれが納税を義務として受け入れているからである.

納税の義務があると考えているということは,国民が,政府に対して借りがある,政府に返さなくてはならない,と感じている,ということを意味している.
どうして,われわれは政府に借りがあると思うのか.
そのような負債感は,どのような条件の下で成り立つのか.
それは,「貨幣」なるものを可能にする条件として,説明されなくてはならないことだが,MMTは,これを自明視して,まったく考えてはいない.

(負債のアンチノミー)

先に,MMTにはひとつだけ欠点があると言ったのは,まさしくこの点である.

4 惨事便乗型アンチ資本主義

(「あれも,これも」から)

まとめると,もしMMTが正しければ──そのように信じることができれば──,われわれは国債をどんどん発行して,事実上のベーシック・インカムを確立し,経済と生命(健康)の選択の苦境を回避できる.
ただしコロナ禍での資本主義的な経済活動の麻痺により,様々な経済主体は負債を返済することが困難になっている.
このためMMTの前提である,「負債は返済されないことを知っているのに,それがいつの日か返済されるものとして扱う」という資本主義の「お約束」は今や不可能である.
しかし,だからと言って,休業せざるをえなかったり,失業したりした人たちへの補償や援助はやめた方がよい,と言いたいわけではない.
まったく逆である.
この方法はいずれ失敗し,資本主義というシステムの根幹を否定してしまうからこそ,実行すべきである[原文では圏点で強調].
もともと,われわれの現状が経済と生命(健康)の選択のジレンマに陥るのは,資本主義を前提にしているからであり,ほんとうは不可能な「あれも,これも」にあえて執着すると,事前にはなかった選択肢が自然と生み出されるだろう.

(惨事便乗型アンチ資本主義)

MMTをあえて自己破綻するほどに活用することは,MMTが無自覚のうちに前提としていた国家への負債感が消えるということであり,また資本主義という枠組みそのものの放棄につながっていく.
そして国家という媒介なしに,ベーシック・インカム的な実践だけが残ったとしたら,そこには究極の「コモンズ」が現れるだろう.
「コモンズ」とは,人がその能力に応じて蓄積したものを,誰であれ,必要に応じて取ることが正当化される「社会的共通資本」である.
それこそ,人類が長いあいだ夢見たユートピアではないか.
[コロナのような]大惨事を活用することで,市場原理主義の根幹の制度である私的所有権を大幅に相対化するような社会変動(言わば惨事便乗型アンチ資本主義)も起こりうるだろう.

【note】
斎藤幸平は,ベーシックインカム(BI)や現代貨幣理論(MMT)では資本の側の抵抗や物象化(人間が貨幣に振り回されること)を解決できないと考えており,国家の力を介したトップダウン型の資本主義改革を「法学幻想」として斥けている.(斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」第5章)

5 脱・私的所有

(私的所有を超えて)

私的所有をコモンズや社会的共通資本へと転換したとき,「能力に応じて貢献し,必要に応じて取る」というルールの場合,人は貢献に関しては消極的になり,取ることに対しては貪欲になるのではないかという心配がある(「コモンズ(共有地)の悲劇」).
ベーシック・インカムに関して,世界各地のいくつかのコミュニティで,すでに実験がなされている.
そうした実験によると,「コモンズの悲劇」のようなことは,ほとんど起こらない.
だから,これは杞憂である可能性が高い.

だが,ベーシック・インカムをこれまで述べてきたようにラディカルに破壊的に活用したうえで,なお活力ある経済システムがありうるのか.
ひとつの可能性として,ポズナーらが提唱している「共同所有自己申告税COST:Common Ownership Self-assessed Tax」という方法を紹介する.

【note:資本主義の初期の動き】18世紀のイングランドで,コモンズ(共有地)から人々が締め出され,それが少数の地主の所有地として囲い込まれた.

(共同所有自己申告税)

COSTではすべてが社会的共通資本であるという極限を想定しても問題がない.
念のために述べておけば,一部のモノだけが共同所有である,という設定でも,その共同に所有されているモノに関して,COSTの方法は十分に適用できる.
[コモンズの導入は,必ずしもすべての私的所有を否定するわけではない.]

さて,COSTの仕組みを以下に説明する.
まず財を保有する者Aは,自分が保有している財Gの価格を自分で評価し,その価格pを公に自己申告しておかなくてはならない.
このとき一定の税率をtとして,Aはp×tの税を支払わなくてはならない.
ここに,その財Gをより高い価格q(>p)で評価する者Bが現れ,財Gを買うことを申し入れたとする.
このとき,AはBに財Gを売らなくてはならない(Aには,A自身が自己申告していたGの価格pが,Bから支払われる).
今度は,Bが財Gの保有者になり,同じことが繰り返される.
つまりBは,q×tの税を支払う義務がある.
(この仕組みの下では,人は自分の保有する財の額を低めに申告すると納税額は少なくてすむが,他者に安く買い叩かれてしまう.)
徴収された税はベーシック・インカムとして,全員に平等に配当すればよい.

(賃料の問題)

ポズナーらが提唱しているCOSTがベストのやり方だと推奨しているわけではない.
ただ,資本主義の根幹にある私的所有の権利を相対化し,コモンズや社会的共通資本の領域を拡大したとしても,十分に活力がある経済を確保できる,ということを納得してもらうために,少なくともひとつは合理的な方法があることを示したのだ.

COSTは,コロナ禍のような状況には非常に強い.
パンデミックで仕事や商売ができないときには,自分が保有し,使用している土地の自己申告額を下げることで,納税額を自分の支払い得る程度に下げればよい.

(格差に抗するプロレタリアート)

本来,社会的共通資本(あるいはコモンズ)であるべきものが,特定の個人や企業によって私的に所有されていると,税にあたるものが,賃料(レント)として,その個人や企業に支払われることになる.
そうなれば,とてつもなく大きな富が,その所有者に集中することになるだろう.
これが現代社会における大きな格差の最大の原因である.
IT関連の知識や技術は,基本的には,(「日本語」や「英語」と同じように)社会的共通資本と見なすべきものの代表である.
GAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)はそれを私的に所有して,莫大な富を獲得している.
この問題については最終章で再論する.

第4章 脱成長のための絶対知

1 人新世の危機に抗するために

(脱成長コミュニズムという回答)

人新世の破局的な危機に抗するかたちで,どのような対策,どのような社会構想を対置したらよいのか.
キューブラー=ロスの第5の最終ステージに達した者が実行すべきことは何なのか.
実のところ,これに対する答えはすでに与えられている.
斎藤幸平が『人新世の「資本論」』で提起していること,「脱成長コミュニズム」がその答えだ.
脱成長コミュニズムとは,私的所有を超えたコモンズを軸とした社会,生産手段はもちろんのこと地球そのものさえもコモンズ(共有地)として管理する社会である.
しかも,その社会は,「脱成長」,つまり経済成長の呪縛から解放されている.
まずは,斎藤自身の論述を参考にしながら,脱成長コミュニズムとは何か,それがどのような意味において人新世の破局への効果的な対抗策でありうるのかを見ておこう.

(脱成長と脱資本主義)

経済成長を果たしつつ,生態系の破綻をも避ける「緑の経済成長」という発想は,結局,破局へと向かう厳しい現実からの逃避でしかない.
キューブラー=ロスの図式をあてはめれば,これは典型的な「取引」であるが,そのような取引はまったく成り立たない.
結局,「脱成長」の道を選ぶほかない,というのが斎藤の結論だ.

【note:ジェヴォンズのパラドクス】新技術が開発されて生産性・効率性が向上すると,その分商品が低廉化して,かえって二酸化炭素の排出量は増える.

ここで脱成長を唱えるにしても,資本主義を手放すことなく脱成長を主張することは,斎藤によれば矛盾した要求だ.
経済システムにとって成長が死活的に重要なのは,そのシステムが資本主義だからだ.

(持続可能性と社会的平等)

したがって,破局を回避するためには,資本主義の死を受け入れなくてはならない.
つまり,コミュニズム──脱成長コミュニズム──しかない.
(なお晩年のマルクスは「持続可能性」(経済成長しない定常型社会)と「社会的平等」(私的所有を否定するコモンズ)が密接に関係していることを発見したと,斎藤は推測する.)
脱成長コミュニズムに向けてなすべきことは,次の5つのテーゼとして提起される.
1. 経済の重心を「価値」(≒交換価値,貨幣の量によって測られる)から「使用価値」(物の性質)へと転換すること(→大量生産・大量消費から脱却)
2. 労働時間の削減(→生活の質の向上)
3. 分業の廃止(→労働の画一性を廃し,労働の創造性を回復)
4. 生産過程の民主化(→経済の減速)
5. 労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視

2 悪い報せとよい報せ

(加速主義の躁と鬱)

(左派)加速主義は,脱成長コミュニズムとは正反対のコミュニズムであり,資本主義の加速主義的側面をさらに強化すれば,資本主義はコミュニズムに脱皮する,とする立場である.
たとえば工場で人工肉が生産されれば,畜牛のための膨大な土地は不要になり,遺伝子工学が発達すれば,人は大半の病から解放され,オートメーション化が進めば,人は労働からも解放される.
そして電力は太陽光によって確保すれば,無尽蔵でありかつ,クリーンでもある.
生産性が高まれば,あらゆるものが低廉化して入手しやすくなる.
こうして各人が欲しいものが必要な分だけ得られる豊かな社会がやってくる……というわけである.
斎藤幸平は加速主義を,極端な現実逃避であり,ただの開き直りだとして嘲笑的に斥けている.
加速主義の躁的な楽天性は,キューブラー=ロスの図式における第4段階の「抑鬱」の反面と捉えられる.
未だ存在しない空想的な技術についての夢にでも埋没しなければ,鬱に陥ってしまうのだ.
加速主義の(一部の論客の間での)流行は,少なくとも,第4段階にまでは人類が来ているという朗報と見なせる.

(余れば余るほど足りなくもなる)

資本主義は人を全般的に豊かにするもの,経済的に富ませるものだと思われている.
しかしまず,それはまちがっている.
貧困・欠乏は,本質的に資本主義に内在しているのだ.
資本主義がなければ,貧困もない.
斎藤は,この点もまた,説得的に論じている.
資本主義には逆説がある.
余れば余るほど足りなくなる,とでも言うほかない逆説が,である.
一方には,物の過剰があり,他方には,物の欠乏がある.
両者を均せば問題は解決しそうに見えるのだが,それができないのが,資本主義である.
資本主義の根幹でもある価値増殖が前提としている「搾取」,その搾取のために必要な差異が,この「過剰/欠乏」として現れているからだ.

(自由の制限?)

資本主義の最大の魅力は,「自由」にある(もちろん,資本主義が与える自由は欺瞞だという論は成り立つが).
これに対し脱成長コミュニズムは自由の制限を含意するため,いかに正しくても,魅力に欠ける.
具体的には未来の他者の利害を損ねることがないように,化石燃料を使いすぎてはならず,二酸化炭素の排出量を抑制しなくてはならない,など.
20世紀の冷戦において,自由を上回る理念を持とうとするシステムが「熱戦」を経ずして解体し,自滅したことが思い出される.

(サマリア人のように)

しかし他者の呼びかけや要求に応ずることが,常に自由の制限を意味するわけではない.
逆に,他者の呼びかけを通じて,自由が構成されることさえある.
われわれが未来の他者の呼びかけを感受できたとしたら,脱成長コミュニズムを実行することは自由を奪われることではなく,むしろわれわれの自由のひとつを実現したことになる.

(未来の他者への応答)

結局,いかにしてキューブラー=ロスの第5のステージに到達することができるのか,いかにして終末の破局を直視し,かつ前向きにこれに対抗することができるのかという問いは,〈未来の他者〉といかにして出会うことができるのかという問いに帰着する.

3 交換価値か,使用価値か

(交換価値よりも使用価値を重視する)

第1節で示した,脱成長コミュニズムに向けた5つの具体策のうち最も困難なことは,「交換価値よりも使用価値を重視するような経済への転換」だ.
一見するとこれは簡単に思える.
本当は交換価値(貨幣)よりも,使用価値(商品)の方が大事なことを,人はわかっているからだ.
それにも関わらず,人は,使用価値ではなく,交換価値の方を──厳密には交換価値の増殖を──目的として行動するようになる.
これこそが,資本主義という現象である.

(W-G-W’からG-W-G’へ)

マルクスの流通の公式を使えば,端緒にあるのは,W-G-W’という循環である:自分が所有する物Wを売って得た貨幣Gによって,欲しかった物W’を手に入れる(W:Ware, G:Geld).
これに対し資本主義は,価値増殖を目的とした循環G-W-G’を基軸として経済が展開している社会システムである.

(貨幣による使用価値の締め出し)

W-G-W’からG-W-G’への転換は,倫理学者が,行動経済学の実験をもとに「市場による道徳の締め出し」と呼んでいる現象と関係がある.
障害児援助等の有意義な事業に必要な資金を得るために,高校生が募金を募る実験では,金銭的報酬を与えられたグループよりも無報酬のグループの方が,多くの寄付を集められた.
ここから公共的な善のための使命感の方が,貨幣的な報酬よりも高校生を強く動機づけていたことがわかる.
そしてそれにも関わらず,わずかでも貨幣的な報酬が伴うと,善行が一種の賃労働──自分自身の利益のための労働──に変質してしまったのである(市場による道徳の締め出し).
(次節より:募金活動により公共善に奉仕でき,さらに報酬も手に入って一石二鳥,とはならない.)
同様の現象は倫理的な行為だけでなく,ちょっとした創意工夫や認知的なひらめきのようなものが必要となるパズルやゲームに対しても見られる(無報酬のグループの方がパズルの成績が良い).
パズルを解くことはそれ自体で十分におもしろい遊びである.
そこに報酬が入ると,パズル解き自体がもつ楽しさが半減し,なんと──本人はまったく自覚がないはずだが──インスピレーションすらわきにくくなるのだ.
行為には,その具体的な特殊性に応じた,直接的な,それ自体としての価値がある.
「(交換)価値よりも使用価値に重きを置け」という提案は,このような貨幣的な価値による,行為の具体的で特殊な価値の締め出しに抵抗すべきだという提案に等しい.

(手段と目的の反転)

貨幣は,普遍的な手段であるがゆえに逆に,すべての使用価値を自らの手段として下属させる高次の目的へと転化する.
このとき個々の具体的な使用価値やそれぞれの具体的な行為の価値は,色あせた,魅力のないものへと変容する.
(公共善に貢献する)倫理的な行為や(それ自体で快楽をもたらす創造的な遊びのような)審美的な行為が,貨幣的な報酬を与えられたとたんに,魅力を失うのはそのためである.

第5章 新世紀のコミュニズムへ

2 新世紀のコミュニズムのために

(何をコモンズに含めるか)

何をコモンズの方にふりわけ,何に対しては私的所有を容認するのかということに関して,一義的な基準があるわけではない.
現在のグローバルな資本主義にとって本質的な不平等,本質的な葛藤が関与している領域において,まずはとりわけコモンズが確立されなくてはならない.
そのような領域は,(少なくとも)3つある.

(コモンズとしての2種類の自然)

第1の領域は自然環境である.
第2の領域はヒトゲノムである(一部の裕福な人々が勝手に自身の遺伝子属性を改造し,格差が生物としての属性の差異として生じる問題が,近い将来,重要度を増してくるだろう).

(コモンズとしての「知性」)

コモンズとされるべき第3の領域は,「知的所有権」やそれに類する法律によって守られているような「文化」の産物である.
その中には,コミュニケーション手段,とりわけインターネットに関連する取引やSNSを含むコミュニケーションのプラットフォームが含まれる.
インターネットは,アマゾンやグーグルが発明したわけではない.
それにも関わらずアマゾンやグーグルは,サイバースペースの中の共有地(コモンズ)を,ささいな理由によって囲い込み,それを自らの私有地としているのだ.
その土地を他人に使わせることで,その他人から「賃料(レント)」を取るのが,彼らのビジネスである(レント資本主義,第3章第5節).

(監視資本主義のメカニズム)

ショシャナ・ズボフは,レント資本主義において「剰余価値」が得られる仕組みを,「監視資本主義surveillance capitalism」という独自の概念を使って記述している.
人はインターネット上でネットサーフィンをしたり,買い物をしたり,さまざまな動画を見たりして楽しんでいる.
しかし,実はそのとき,人は得たもの以上のものを監視資本に与えてしまっている.
それは,それぞれの個人がどんな生活をしているのか,何を好んでいるのか,等々の個人情報である.
ここで剰余価値が生じている.
この仕組みには,私的所有とコモンズの間の交錯が巧みに活用されている.

(コモンズを偽装して稼ぐ)

[グーグルやアマゾンが具体的に,剰余価値としての個人情報をどのように利用して稼いでいるのかを説明しよう.]
グーグルやアマゾンは典型的なやり方で「両面市場」を活用している.
両面市場とは,互いに相手の数が多ければ多いほど得をする2種類の市場参加者を,結びつけることから利益を得るビジネスモデルのことである.
今の文脈で説明すると,われわれ(Aタイプの参加者と呼ぼう)はグーグルの検索をタダで使用する.
広告を出したい業者Bにとっては,検索のユーザー(Aタイプの参加者)が大量であるということが望ましい.
だから,業者Bたちは,グーグルに「参加料」を,つまり一種の「レント(賃料)」を支払って,望ましい場所に広告を出させてもらう.
この両面市場モデルが興味深いのは,同じサイバースペースが,一方[A]に対しては,共有地(コモンズ)として提供され,他方[B]に対しては,私有地として主張されている,という点である.
グーグルの利潤は,偽装された共有地と私有地のギャップから生まれている.

(監視国家に抗して)

新型コロナウイルスへの対抗という点で,中国が最も優れていた.
それは,中国が非民主主義的な権威主義国家であり,それゆえに可能だった国民への厳密な監視があったからだ.
では,民主主義や自由を否定する権威主義国家が,少なくとも感染症との戦いにおいては最も有利なのか.
確かにウイルスや感染症への対処法として,IT技術を動員した緻密な監視網の効用は否定しがたい.
もし今後も,同じようなウイルス禍が繰り返されるようであれば──現代が人新世であることを思えば,その可能性は高いと考えねばならない──,われわれは,どんなにおぞましさを覚えても,最終的にはそうした監視網を受け入れざるをえなくなるだろう.
しかし「モニタリング民主主義」によって,監視そのものを監視し,その逸脱や濫用を抑止すれば,効果的な監視と民主主義や自由とをともに確保することができるだろう.

(権威主義的資本主義)

長い間──少なくとも20世紀の間は──,まともな民主主義体制のもとでしか,資本主義は成功しないと考えられていた.
しかし21世紀に入ってから,「改革開放」を唱える中国が,非民主的な権威主義体制を維持したまま,資本主義としても圧倒的な成長を遂げているように見える.
その背景には,現在のグローバル化した資本主義そのものが,強い権威を求めているという事情がある.
つまり,サイバースペース上の私的所有権を活用して利益を得ている監視資本は,それを正当化する法をインターネット上のすべての参加者に強制できる直接的な権威を──つまり強い国家権力を──どうしても必要とする.
こうした非民主的な権威からわれわれを解放する手段はひとつしかない.
サイバースペースをコモンズとすること,これだけである.

3 資本主義に内在するコミュニズム

(傾向的法則の含意)

資本主義がその内部から限界に達し,コミュニズムへと徐々に近づいていくダイナミズムは,マルクスが言う「傾向的法則」なるものを想起させる.
総資本の循環によって生ずる利潤率が少しずつ低下し,資本主義が徐々に限界に近づいていくことを意味する「利潤率の傾向的低下の法則」だ.
これは,資本主義が,それ自身の原理を通じて内側から破綻へと向かうことを含意する法則だ.
ただし[すぐ後で述べるように]「傾向的法則」とは単なる客観的な「趨勢(トレンド)」とは異なる.

(「利潤率の傾向的低下の法則」とは何か)

資本家が投下する資本は,労働力を購買するための資本Vと,それ以外のもの(生産手段や原材料)の購入に使われる資本Cに分けられる.
マルクスの考えでは剰余価値は労働力から生まれるため,Vは可変資本と呼ばれ,これに対しCは不変資本と呼ばれる.
利潤率rは,投下した資本に対する剰余価値(≒利潤)Mの比率として定義される:

 r=\frac{M}{C+V}.

ところで資本家は得られた剰余価値を再び投資に回す際,労働の生産性を高めるために可変資本Vよりも不変資本C(最新の機械等々)に多くを配分する傾向がある(C/V→大).
このとき直感的に言って,利潤率の源泉となる可変資本の比率が低下するため,利潤率は低下すると予想される.
実際,上式を

 r=\frac{M/V}{(C/V)+1}

と書き換え,資本家による労働者の搾取率M/Vを一定と仮定すると,比C/Vの増大に伴って利潤率rが小さくなることが見て取れる.
もし利潤率がゼロになってしまえば,資本主義は成り立たない.
したがって,利潤率の傾向的低下の法則は,資本主義が自らその破綻へと徐々に向かうダイナミズムの存在を示している.

(闘争としてのコミュニズム)

以上は,マルクス経済学のどんな教科書にも書いてあることだ.
われわれが気づかねばならないことはその先にある.
資本家の方は,可変資本Vを減らして労働者の搾取を強化しようとしているのに対し,労働者はこれに抵抗する.
したがって「利潤率の傾向的低下の法則」は客観的な法則というよりもむしろ,利潤率が資本家と労働者の勝負の動向を示す指標であることを意味している.
差し当たって重要なことは,資本主義には,結果的にコミュニズムへと結びつく力と資本主義の内部にとどまろうとする力との間の闘争が内在している,ということである(厳密には,この資本主義に内在している闘争が,すでにコミュニズムである).
反復的な闘争の中で,コミュニズムに向かい得る側が勝利するのは,現在のわれわれが〈未来の他者〉の呼びかけに応じたとき,〈未来の他者〉と連帯したときではないか.
コロナ危機において,そしてこれからも繰り返される破滅的な危機において,現在のわれわれが〈未来の他者〉とともに闘うならば,そのたびに,不可能だったことが少しずつ可能なこととして獲得されていくだろう.
その漸進的な歩みの先が,来るべきコミュニズム,新世紀のコミュニズムである.