Spinoza描像 (形而上学) ほか

Spinoza描像

【PDF】Spinoza描像:自由意志の否定,べきだ論 (当為命題) の虚構性

このエッセイ (PDF) のエッセンスにあたる第1章を以下に動画とともにまとめる.

 

 

Spinoza 描像は資本主義・新自由主義のイデオロギーに対抗する理論体系であり,「自由意志の否定」「当為命題の虚構性」を二大柱として,下図のように要約される.

Spinoza描像

Spinoza描像

資本主義・新自由主義のイデオロギー

我々の社会を取り巻く資本主義は下図のように特徴付けられる.
詳しく順番に見ていこう.

資本主義とその周辺

資本主義とその周辺

資本主義

近代に特有の資本主義社会においては,社会の「富」は悉く「商品」に姿を変え,我々はお金を稼いで商品を手に入れなければ,もはや生きていくことはできない.
かつては誰もがアクセスできるコモン (共有財産) だった富は,資本家によって私的財産として囲い込まれ,独占された.
そして囲い込みによって農地などを締め出され,生産手段や共同体の相互扶助の関係から切り離された人々は,資本家に労働力を (商品として) 提供する「賃労働者」とならざるを得ず,さらに生産された商品の買い手となって資本家に市場をも提供した.
こうして我々が生きていく上で必要な物質代謝が,商品を通じて行われるようになった社会の体制を資本主義という.
なお労働者が資本の需要に対して過剰となれば,「代わりの人間はいくらでもいる」ため,低賃金で過酷な労働を強いることができる.

資本の運動と弊害

資本の目的はあくまで価値──貨幣によって測られる「交換価値」──の自己増殖であって,人間を幸福にすることではない.
実際,価値増殖あるいは市場の自由競争で勝つことのみを目的とした商品生産は,質(使用価値)を蔑ろにし,本当に必要な物やサービスを劣化させたり削ったりして,社会の富を貧しくしさえする.
また技術革新によって生産性は向上しているにも関わらず,いまだに人類は長時間労働から解放されていない.
それどころか,高給取りの仕事を中心に近年,いわゆる「ブルシット・ジョブ (クソどうでもいい仕事)」が急増し,労働者の精神を蝕んでいる.
さらに格差は拡大する一方であり,環境破壊にも歯止めがかからない.

資本の価値増殖運動に組み込まれた人間は,本来手段であるはずのお金の増殖 (金儲け) それ自体を目的として行動するようになる.
これは端的に言って倒錯であるが,お金の普遍性の下では,個々の具体的な事物そのものが持つ固有の価値は色褪せてしまい,「役に立たない」ものや必ずしもお金にならないものの価値を理解できなくなる.
例えば「将来のために勉強しろ」という大人も,学問そのものに価値を認めているとは限らず,「それ自体が喜びをもたらす自己充足的な遊び」としての勉強のあり方にはかえって嫌悪感を示すことさえあり得る.
その遊びこそはおそらく勉強の本質であり,資本主義の論理から自由であるための鍵なのだが.

新自由主義

資本主義経済の停滞が顕著になった20世紀後半では,各国で「新自由主義 (ネオリベラリズム)」が台頭し,公共事業の民営化や規制緩和による市場の自由化が進められた.
新自由主義は詮ずるところ,市場の競争原理に委ねて利潤獲得を追求する政策であり,「小さな政府」「福祉削減」「緊縮財政」「自己責任」「選択と集中」「アウトソーシング」などのスローガンによって特徴付けられる.

社会を発展させる合理的な原動力として競争を正当化できるという発想はあまりに単純であり,事実認識からして既に誤っている.
アイデアには限りがある以上,絶えざる競争のペースに合わせた商品開発を強いられている限り,希少価値を生み出すには無理やり知恵を絞り出す他なくなる.
このためスマホや冷蔵庫を見れば分かるように,新商品の開発は小手先の変化ばかりになってしまう.
また画期的な新技術もすぐに模倣されるため,一時的な利潤しかもたらさず,イノベーション競争はイタチごっこの様相を呈する.

新自由主義はグローバル化を後押しした.
その主要な目的は途上国の安価な労働力を使い倒すことにある.

資本主義・新自由主義のイデオロギー

今や資本にとって役立つ能力(あるいはその結果と見られるところの経済的成功・報酬)によって人の価値を定義する新自由主義的な発想は自明視され,「稼ぎが低いのはスキルがないからであり,それは人として価値がない証拠である」という通念が社会に浸透している.
そして「スキルや能力がないのは,それを身につける努力を怠った“負け組”の自業自得だ」という論法は,現代社会を伏流し,幅を利かせている支配的なイデオロギーとなっている.
しかしながら,このような新自由主義的な自己責任論は哲学的に容認できない.
と言うのも,形而上学的なレベルに遡って考えれば,人間は決して行為の自由な主体ではあり得ないからである.
それは動かし得ない根源的な真理であるが故に,「言い訳だ」などの一言で片付けたり,括弧に入れて考えたりすることが許されない.

職業選択の自由もまた形式的なものである.
それにも関わらず労働者は「自分で選んで,自発的に働いている」と錯覚し,資本家にとって都合の良い労働者像を,あたかも自分が目指すべき姿,人間として優れた姿だと思い込むようになっていく (例えば現代では忙しさは美徳とされる).
これは労働者の責任感や向上心,主体性といった精神性までもが,資本の論理に「包摂」される過程と言える.

このように資本主義的な価値観を内面化させた人間は周りの人間にも,理不尽な労働倫理を「あるべき姿」として強要するだろう.
そのような理念は当為命題の形をとる.
当為命題とは「……べきだ」という形に帰着できる,規範を表す命題のことである.
ところが一般的に言って当為命題は事実だけからは導くことができず,恣意性を免れない.
例えば仕事が充実しているに越したことはないが,「社会人は仕事こそが生き甲斐であるべきだ」「仕事は全力で取り組まなければならない」とまでは言えない.
また会社の命令には素直に従うのが日本人の当たり前の働き方だったからと言って,それに従うべきだとは言えない.
あるいは現代社会が市場の競争原理で動いているというだけの理由で,「競争するべきだ」「グローバルな世界で通用する人材になるべきだ」とは言えない.
これらはいずれも本質的には「資本に奉仕する人材になるべきだ」と述べているのであり,与えられた資本制社会の論理を無批判に受容しているにすぎない.
なるほど,もちろん同じ理由で資本主義を終わらせる「べきだ」とまでは言えない.
しかし「資本主義が終わってほしい」と言えば,嘘にはならない.

Spinoza描像

以上のように,新自由主義的な自己責任論と理不尽な労働倫理には,それぞれ「自由意志の否定」と「当為命題の虚構性」でもって対抗できる (下図参照).
私はこれらをまとめてSpinoza描像と呼んでいる.
以下ではSpinoza描像をより詳細に導入するための最小限の議論を行う.

新自由主義的イデオロギーのアンチテーゼとしてのSpinoza描像

新自由主義的イデオロギーのアンチテーゼとしてのSpinoza描像

自由意志の否定

自由意志の否定から始めよう.
自由意志を行使することが重要とされる人生の局面の最も象徴的な例は,おそらく受験勉強という形をとる.
ところが実際には勉強しなくてはいけないと思いつつもやる気が出ず,一向に行動を起こせないという金縛りのような無気力状態を,誰しも少なからず経験したことがあるだろう.
ここで注目されることは,そのような場合,常識に反して主観的には他の選択をすることが全く不可能に思われるということである.
このような直観の正しさは,哲学的考察によって裏付けられる.
もし意志の力で言うことを聞かない身体を強制的に行動へと駆り立てられるならば,それは無気力の中でも自由に発動させることができる精神の作用,すなわち自由意志でなければならない.
言い換えれば自由意志は,過去からの影響,または物理法則の支配を断ち切り,自発的な行動を引き起こす超自然的な能力,あるいは行為の純粋かつ絶対的な始まりとして定義される.
つまり自由意志とは言わば無からの創造であり,不可能を可能にするという自己矛盾であり,その定義により存在し得ないことが明らかである.
自由意志が存在しないことは,科学的・物理学的世界観からも導き出される.

  • 実際,自由意志は精神が身体に影響を及ぼし得ることを前提としている.しかし精神と身体は異質な存在であるため,その相互作用を考えることはできない.
  • また一見すると能動的・主体的・自発的な人間の行為も渾然一体としたミクロな粒子の運動や場の時間変化に還元されるため,自由意志を行使し得るような行為の主体は見出せない (要素還元論).
  • さらにあらゆる出来事は自然法則に従って必然的に生起していると考えられ,そこに自由意志の入り込む余地はない.

もちろん以上の議論は形而上学に属しており,信じるか信じないかという問題だとも言える.
形而上学的命題の正しさは,帰納的推論の産物である蓋然的な経験科学の知見によって証明できるものではない.
むしろそのような形而上学的な思想が,物理学を始めとする自然科学の前提を成していると言った方が正確である.
とは言え,これらは説得力があり,充分もっともらしく思われる.
(付け加えると,物理学が自由意志の否定と整合していることは,理論物理学を学ぶ 1 つの原動力にもなり得る.)

当為命題の虚構性

次に当為命題の虚構性に移ろう.
当為命題はいかに論理で武装しようとも,独断論であることを免れないと考えられる.
このことはほとんど自明だと思われるが,あえてその理由を述べれば次のようになるだろう.
まず,ある当為命題を導く論理が循環論法や無限後退に陥らないためには,何らかの前提条件を出発点として認めなければならない.
ところで当為命題は事実命題だけからは,導けないと考えられる.
(「である」から「すべき」は導けない.このことは Hume の “法則” と呼ばれる.)
よって出発点を成す前提条件にもまた何らかの当為命題が含まれることになる.
もし前提条件が当為命題を含まず,単に事実命題だけから構成されるのであれば,その主張は現実世界と一致するかを確かめて真偽を判断できる可能性がある.
しかし当為命題は事実命題と違って,そのような方法で真偽を判断できるものではないため,前提条件に含まれる当為命題は無条件に認めることになる.
これはあらゆる当為命題が独断論であることを免れないことを意味している.

Spinoza哲学

以上のアイデアは哲学者 Spinoza の思想と重なる.
実際 Spinoza によれば,神はこの世界そのものであり,それ故,神即自然と呼ばれる.
(したがって Spinoza の考える神は人格を持たない.)
そしてあらゆる事物は神の必然性に従って生起している.
このような考え方は汎神論と呼ばれ,自由意志や目的論の否定へと導く.
Spinoza の汎神論は『エティカ』第 1 部定理 29 の言葉に端的に表されている.
曰く,

自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない,いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている.

意志を抱くことや努力することは,それが可能な場合には神即自然の必然性に従って自動的に達成されるのに対し,それが神の時間発展に含まれていない場合には,空から自由意志でも降ってこない限り不可能である.
ところが自由意志は存在しないため,それは絶対に不可能である.

Spinoza 哲学においても,精神と身体の相互作用は否定されている.
それにも関わらず心と身体の状態に対応関係が見られるのは,これらが同一の神の異なる2つの側面を表しているからであると説明される.
このように精神的状態と身体的状態は対応しているけれども,精神と身体は相互作用せず,物理的な出来事と精神的な出来事は独立に進行するという立場は心身平行論と呼ばれる.
これは勿論,自由意志の否定と整合している.

さらに Spinoza 哲学は絶対的な善悪を認めない.
これは当為命題の虚構性に対応するものと見ることができる.

なお Spinoza の自然観は決定論的であり,決定論が正しければ自由意志は存在しないと考えられる.
しかし量子力学の描くような非決定論的な自然観を導入しても,自由意志を救うことにはならない.
事物がランダムに確率的に生起するとしても,人は世界のなすがままに振り回されてしまうのであれば,そこにも自由意志は見出せない:

決定論 ⇒ 自由意志なし  ( p \Rightarrow q ),
非決定論 ⇏ 自由意志あり  ( \bar{p} \nRightarrow \bar{q} ).

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