A.ベナナフ『オートメーションと労働の未来』まとめ

本稿はアーロン・ベナナフ『オートメーションと労働の未来』のまとめノートである.
(アーロン・ベナナフ,2022,オートメーションと労働の未来(佐々木隆治監訳),堀之内出版,東京.)
ベナナフの主張は斎藤幸平のコミュニズム論と共通する点が多い.
例えばテクノロジーが発展しても私たちが社会の変革を求めて闘わなければ,資本家の労働者に対する支配が強化されるだけであると考える点や,ベーシック・インカムを導入しても資本のストライキに打ち勝つことはできないと考える点などである.
また斎藤幸平は民主的な連帯(アソシエーション)を通じて社会の富を脱商品化し,コモン(共有財産)として自治・管理するポスト資本主義の構想を打ち出している.
これはオートメーション化がなくとも,社会運動を通じて民主的に必要労働を再配分し,ポスト希少性の未来と万人の自由の拡大を実現することは既に可能であるとするベナナフの見解と軌を一にする.

A.ベナナフ『オートメーションと労働の未来』

A.ベナナフ『オートメーションと労働の未来』で示されるポスト資本主義の構想は,斎藤幸平の民主的な脱商品コミュニズムに重なる.

したがってベナナフの本は斎藤幸平の脱商品コミュニズム論の補論として読むことができる.
逆に斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」をベナナフの本の“予習”に用いることもできる.
そこで「ゼロからの『資本論』」の内容を簡単に振り返っておく.

【PDF】斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」まとめ──お金の要らない世界 (脱商品コミュニズム) へ

次にベナナフの本の概要として,序文を要約するところから始める.
「日本語版への序文」は著者自身によるダイジェストとも言える(p.223).

序文(+日本語版への序文)

AI技術の発展に伴う急速な自動化(オートメーション)による大量失業が間近に迫っており,それに対処するにはユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)を給付するしかないという議論が,近年,盛んにおこなわれている.
このようなオートメーション言説の背景には慢性的な労働需要の低迷がある.
(労働者世帯の多くは半失業状態に苦しんでおり,多くの労働者は,たとえ教育水準の高い層であっても,質の低い仕事から抜け出せない.)
しかしながら実際には雇用を破壊しているのはテクノロジーではない.
むしろ技術革新のペースは減速しているのである.
(そもそもテクノロジーそのものには原理的な限界があり,最先端の人工知能さえいまだ人間にできることの大半を実行できない.まさに私たちがロボットたちの手助けを最も必要としたコロナ禍において,エッセンシャルな仕事をしたのは人間であった.)

労働需要が低迷している真の原因はオートメーション技術ではなく,経済の長期停滞である.
[第2次]産業の生産能力の過剰が製造業の成長エンジンを止めてしまい,それに代わるはずのサービス業も,その大部分を占める[デジタル産業やIT産業の]活動は[世間的な注目度とは裏腹に実は]生産性が低く,経済成長を担うことができない.

【note】
実際,情報関連部門はブルシット・ジョブの温床である(酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』pp.164—166).
また情報は簡単にコピーでき,共有されてはじめて意味を持つため,もとより資本主義の私的所有の論理になじまない.

こうした現象は世界中で起きている資本主義の根本的な問題であり,「日本化」とも呼ばれている.

【note】
「日本化」の説明は第3章(p.84).
巻末の監訳者解説では「ジャパナイゼーション」は没落「先進国」化ぐらいの意味で用いられている(p.225).

停滞した経済を再活性化させるために,政府は約半世紀をかけて懲罰的な緊縮財政を人々に押しつけ,学校や病院,公共交通網,そして福祉プログラムの予算を削減してきた(貧困層や移民をスケープゴートとして攻撃しながら)[いわゆる新自由主義(ネオリベラリズム)である].

【note】
つまり資本主義はイノベーションによってではなく,賃金の引き下げや新自由主義の下での雇用の非正規化といった,労働力の野蛮なダンピングによってしか利潤を生み出せなかった.
(白井聡『武器としての「資本論」』第9講)

このような動向によって世界経済が信じられないほど貧しい状況に置かれていたところに,コロナ不況という最大の試練が訪れたのである.
長期的に見ればコロナ不況は,経済の不安定化や不平等化という長きにわたるトレンドを加速することは明らかである.

そこでオートメーション論者が描くユートピア的世界を省みることが重要となる.
オートメーション論者曰く,テクノロジーによって私たちはあまり働くことなく,生活を維持するのに必要なものをすべて利用でき,自然環境に負荷をかけない社会が実現される.
[このように生活に必要なあらゆるものへのアクセスが例外なく万人に保証されている世界はポスト希少性の未来と呼ばれる.(p.49)]
そして,これらすべては,私たちがそれを求めて闘うなら,今すぐにでも実現可能である.
技術的には人々が生活するのに必要な財やサービスの大部分を無償で提供可能にするための条件は整っており,たとえ生産のオートメーション化が不可能だとしても,私たちはオートメーション論者が語るポスト希少性の世界を実現することがすでに可能なのだ.
ポスト希少性の未来においては,家事労働やケア労働のように現状では公式の経済活動とされていない労働も含め,すべての労働が再分配され,労働量は減り,人々が自分の人生を自由に決定することのできる,自由の領域が拡大されていくであろう.
逆にテクノロジーが発展しても私たちが闘わなければ,現在ウーバーがテクノロジーを利用して不安定な立場で細切れの仕事を求める人々を喰いものにしているように,多くの企業は労働者をより効率的に支配し搾取するために,不安定性を増大させる方法を考え続けるだろう.
より人間的な未来に向けて潮目が変わるか否かは,労働者の多くが労働需要の継続的低下とそれに伴って拡大する経済的格差を受け入れることを拒否するか否かにかかっており,いま私たちに必要なのは[民主的連帯を基盤としたボトムアップ型の社会運動を通じて]経済と社会のより広範な変革のために闘うことである.

本書において私[著者]は,ポスト希少性の未来を生産のオートメーション化なしで実現する可能性を探求する.
オートメーション言説を紹介し批判しながら,過去50年の間に世界経済とその労働力に起こったことを概説し,慢性的な労働需要の低迷という今日の状況に至った経緯とその起源を明らかにする.
さらに,この市場の失敗を解決することを目標とする政策的代替案──新自由主義的構造改革,ケインズ主義的需要管理,そしてユニヴァーサル・ベーシック・インカム──について論じ,それらとの対比でポスト希少性の世界の輪郭を描く.

第1章 オートメーション言説

一見すると人工知能,機械学習,ロボット工学の急速な進歩が労働の世界を大きく変えようとしているように見える.
しかし実際には滑稽なことに,ロボットはいまでもドアを開けることができないし,洗濯物をたたむこともできない.
ロボット警備員はショッピングモールの噴水に落ちている.
デジタル・アシスタント〔チャットボット〕や自動運転も,人間の適切な介入なしには十分に機能しない.
2014年にアメリカで賃上げ運動が起きるなか,サンフランシスコでは最低賃金引き上げ法が成立すればファストフードの店員をタッチパネルに置き換えると脅す看板が何枚も立てられた.
しかしヨーロッパでは多くのファストフード労働者が,合衆国よりもよい給料で,既にタッチパネルのある環境で働いている.
このようにオートメーション化にまつわる恐怖の物語はいまだ無意味なおしゃべりにすぎない.
しかしながらオートメーション論者は(1)現在進行形で労働者が高度な機械に置き換えられ「技術的失業」が増大しており,(2)将来的にはほぼすべての作業がオートメーション化されると主張する.
(3)それは労働からの解放ではなく大量失業という悪夢を意味し,(4)それを回避するにはユニヴァーサル・ベーシック・インカム(UBI)を導入して労働と収入の関係を断ち切るしかないと論じる.

(機械がやってくる)

このようなオートメーション言説は主に未来学者を自称する人々によって広められ,ビル・ゲイツやイーロン・マスクのようなシリコンバレーのエリートたちに熱狂的に迎え入れられてきた.
バラク・オバマやロバート・ライシュをはじめとする政治家やそのアドバイザーたちも,このオートメーション言説に同調し,UBIを真剣に検討している.
スルニチェク,ウィリアムズ,フレイズは左翼的なUBIを支持しており,彼らにとってUBIは「完全自動のラグジュアリー・コミュニズム」への橋渡しとなるものである.

【note】
これは資本主義が破綻するまでBIをラディカルに活用してポスト資本主義へと至る,大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ』の論調を想起させる.
このようなビジョンは第5章で批判的に検討される.

(繰り返される不安)

もし技術が単に人間の生産能力を増強するだけであれば,その職種は存続し続ける.
このとき技術革新が雇用破壊につながるかは,その産業の生産性とアウトプットの相対的な成長速度に依存するのであり(p.37),このことはオートメーション化とは関係なく成り立つ.

【note】
これは生産性の定義の直接的帰結である.
詳しくは第2章(p.54)で説明される.

これに対し技術が人間の労働を《完全に代替》し,完全に「ある職種がパッと消えてしまった」(カート・ヴォネガット)ならば,そのときには真のオートメーション化が起きていると定義できる.
確かにオートメーション論者が予見するこのような技術的ブレイクスルーはいつ起きるか分からず,将来,汎用AIによって一挙に多くの職業がなくなってしまい,大量の労働者がどんな低賃金でも雇われなくなる可能性を完全に否定することはできない.
これまでもオートメーション化は時代をつうじて雇用喪失の原因であり続けたのであり,新たなオートメーション技術が将来さらに雇用を破壊すること自体は間違いない.
しかしながら問題はその規模であり,現在進行している労働需要の低迷が,専らオートメーション化へ向けた技術革新によるものだと結論付けるのは性急である.

オートメーション言説はいまに始まったものではなく,近代史のなかで周期的に現れてきた.
オートメーション言説を周期的に呼び起こすのは,労働市場の機能にたいする深い不安,すなわちあまりにも多くの人々にたいしてあまりにも少ない雇用しか存在しないことへの不安である.

(あまりに少ない雇用)

こんにちオートメーション言説が再び注目を集めているのは,グローバル資本主義が雇用を必要とする多くの人々にそれを提供することができて《いない》からである.
そのような労働需要の低迷は失業率には反映されず,不完全雇用の増加という形で現れる.
ただし労働需要の低さの原因は,オートメーション論者が示唆するような急速な技術革新ではない.
とは言え,オートメーション論者のユートピア的な思索が,ラディカルな社会変革のビジョンを生み出す想像力を与えてくれる点は高く評価できる.

まとめよう.
オートメーション言説に応答して,以下の章では四つの反論を展開する.
第一に,過去数十年間の労働需要の低下は,技術革新の前代未聞の飛躍によるものではなく,これまで通りの技術変化が経済停滞の深刻化という環境において起きたことによるものである.
第二に,こうした労働需要の低迷は,大量失業ではなく持続的な《半失業》として現れる傾向にある.
第三に,結果として生じる低賃金労働者の世界は,エリートたちに受け入れられ,歓迎さえされ続けるであろう.
それゆえ,技術が進歩したとしても,自動的にUBIのようなテクノクラート的解決策が採用されることには決してならないであろう(一方で,たとえUBIが導入されたとしても,巨大な不平等の世界を解体する手助けになるよりも,それを支えてしまう可能性のほうがはるかに高い).
第四に,生産の完全な,あるいはほぼ完全なオートメーション化が起こらなくとも,私たちは潤沢なポスト希少性の世界を創出することができるかもしれない.
そのとき,そこにたどり着くための筋道は,行政的な介入ではなく社会的な闘争であろう.

ポスト希少性の未来──そこでは生を営むうえで必要なあらゆるものへのアクセスが例外なく万人に保証される──は,人類が気候変動と戦うための基盤となりうるだろう.
またそれは,ジェームズ・ボッグスが言うところの「人類の歴史上初めて多くの人々が,次の食事はどこからくるのかという恐れに束縛されることなく,自由に探求し,熟考し,創造し,学習し,教育することができる」ような条件を創出することで,私たちが世界を作り変えていくための基盤にもなりうる.
このポスト希少性の未来への道を見出すためには,オートメーション論者たちが認識しているように労働と所得との関係を断ち切るだけではなく,多くの人々は認識していないが,利潤と所得との関係をも断ち切ることが必要なのである.
[第5章p.155以降にあるように,利潤追求が経済の原動力であり続ける以上,物象化を抑えることはできないということか.]

第2章 労働のグローバルな脱工業化

現在,サービス部門は世界全体で雇用の半分以上を占めている.
したがってもしオートメーション論者が吹聴するように,技術によりサービス部門の雇用が消滅すれば,雇用の大部分が破壊されることになる.
なるほど,確かに製造業では過去50年,雇用全体に占めるシェアが著しく低下した.
米国,ドイツ,イタリア,そして日本では,製造業の総雇用者数は戦後の絶頂期の三分の一ほど減少した.
学術的にはこのことを指して脱工業化という.
しかしながら製造業はもとよりオートメーション化に最も適合的な産業部門なのであって,同じことがサービス部門に当てはまるとは限らない.

(生産性のパラドックス)

ひとまず本章では製造業について論じる.
先に挙げた高所得国では脱工業化が進んだにも関わらず,製造業の生産量自体は増大した.
これはオートメーション論者の予想通りに,より多くの製品がより少ない労働力によって生産されていることを意味する.
すると先進諸国産業における雇用喪失の主要な原因は,労働生産性の急激な上昇にあると考えたくなる.
しかし実は,この説明は妥当ではない.
実際,製造業の生産性はここ数十年のあいだ伸び悩んでおり,「コンピューター時代の到来はいたるところで実感できる.だが,生産性の統計には表れていない」と経済学者のロバート・ソローに言わしめたほどである.
統計を適切に修正すると,米国の製造業の生産性の伸び率は,戦後の絶頂期から著しい下落を経験したドイツや日本などの国のパターンに近いものになる.
まとめると,脱工業化(製造業における雇用の減少)は進行したが,その原因は製造業の生産性の上昇ではなく,生産性はむしろ下降したのである.
この生産性のパラドックスを考えるにあたって,いくつかの基本的な概念を定義しておく.
アウトプット(実質的な付加価値)Oと雇用(人数)Eに対し,生産性を1人あたりのアウトプットP≡O/Eとして定義すると,伸び率の間の関係⊿O-⊿P=⊿Eが帰結する.

【note:導出】
O=PEでその変分δO=PδE+EδPを辺々割り,伸び率⊿O≡δO/O,⊿E≡δE/E,⊿P≡δP/Pを定義すると,⊿O-⊿P=⊿Eが得られる(|⊿O|,etc.(≪1)の1次までの近似).

さて,フランスの製造業におけるアウトプットの伸び率の内訳から,高所得国の典型的なパターンを把握することができる(下図参照).

フランスの製造業(1950~2017年)

フランスの製造業(1950~2017年).A.ベナナフ『オートメーションと労働の未来』の図2-1(p.59)を基に作成.

アウトプットの伸び率⊿Oは常に正であって,ますます多くのものが生産されていることは正しい.
また生産性の伸び率⊿Pが減少していることも正しい.
しかしここで重要なのは,アウトプットの伸び率⊿Oもまた低下し,生産性の伸び率⊿Pを恒常的に下回るようになったということである.
このとき雇用の伸び率⊿Eは負の値をとり,確かに製造業における雇用の縮小,すなわち脱工業化が起きる(こうして生産性のパラドックスは解消される).

【note】
第3章のpp.89–90を先取りして解釈をまとめる.
雇用の伸び率⊿E=⊿O-⊿Pにおいて,オートメーション論者は専ら生産性の伸び率⊿Pの上昇が労働需要の衰退⊿E<0を引き起こしていると思い込んでいる.
しかし生産性の伸び率⊿Pは縮小しており,問題はアウトプットの伸び率がさらにそれを下回るようになったため(⊿O<⊿P),雇用の破壊⊿E<0が起きているということである.

このような脱工業化の波は20世紀の終わりまでには,中所得国や低所得国へとグローバルに広がった.
ただし以上の議論は伸び率の定義に基づく状況整理であって,そもそもなぜ脱工業化が進んだのかということに対する因果関係の説明にはならない(巻末の注18).
では脱工業化の原因は何であろうか.

(製造業の生産能力過剰という病)

マルクス主義経済思想家ロバート・ブレナーにしたがって,私[著者ベナナフ]は,技術の急速な変化にではなく,何よりもまず,世界の製造市場において悪化を続けている生産能力の過剰状態にこそ世界的な脱工業化の波の原因があると考えている.
生産能力の過剰化は第二次世界大戦後に段階的に進行した.
そしてブレナーが論じたように,世界全体で成長を続けた製造業の生産能力は急速に過剰状態に陥り,製造業のアウトプットの伸び率の「長期低迷」を生んだのである.
実際,低コスト生産者との競争が激化したため,米国産業のアウトプットの伸び率は1960年代末に低下しはじめ,雇用構成の脱工業化をもたらした.
また高所得国だけでなく,グローバル・サウスも国際競争に巻き込まれたため,製造業におけるアウトプットの伸び率の低下とそれにともなう労働の脱工業化が起きた.
このように脱工業化は技術の進歩だけの問題ではなく,生産力と技術力の世界的過剰の問題でもあったのである.

第3章 スタグネーションの影

製造業部門での雇用喪失に関する前章の議論は,各国経済のサービス部門と世界経済全体における労働需要の低下とも密接に関係している.
実際1970年代以降,各国で製造業のアウトプットの伸び率が停滞するなかで,工業にかわって経済成長のエンジンとなるような部門が現れなかった.
このため工業のスタグネーションの深刻化は経済全体での労働需要の衰退に直結することになったのであり,これはオートメーション化よりも経済全体の傾向を上手く説明している.

(成長エンジンの停止)

製造業のアウトプットの伸び率の低下とGDP全体の伸び率の低下が密接に関係していることは,高所得国の経済統計から容易に見てとることができる.
フランスは好例である(下図参照).

フランスの製造業および経済全体の生産量伸び率(1950~2017年)

フランスの製造業および経済全体の生産量伸び率(1950~2017年).A.ベナナフ『オートメーションと労働の未来』の図3-1(p.77)を基に作成.

データが意味しているのは,経済成長のエンジンを担っていた製造業が活力を失うなかで経済全体も同様に勢いを失ったということである.
スタグネーションが製造業から経済全体に伝播した主なメカニズムは,生産の拡大に用いられる財やサービスにたいする需要の縮小にともない,投資のペースが減速したことにあった.
このことがさらに雇用の縮小を生み,消費需要を低下させたのである.
このように,製造業の活力の低下とともに経済全体がスタグネーションに陥る傾向があり,このことによってシステム全体での労働需要の低下も説明することができる.
経済全体で労働需要が低下しているのは,サービス部門におけるオートメーション化の進展によって生産性の伸び率が上昇したからではない.
むしろ製造業の場合と同様に,いや,それ以上にサービス部門における生産性の伸びは鈍化しているのだ.
こうした傾向は中国を含む世界経済全体においても顕著である.
以上のことが示しているのは,製造業の成長率が下がる一方で,成長を牽引してきた工業に代わるものが登場しなかったということである.

(オルタナティブの不在)

技術力の普及や国際的な冗長性,市場競争の激化のために工業化という成長のエンジンが停止してしまうと,労働者はサービス部門を中心とする低生産性の仕事に溜まるようになった.
また脱工業化が進んだ国では金融資本が膨れ上がり,新たな固定資本に長期的な投資をするのではなく,相対的に流動性の高い資産を所有することによって収益を追求するようになり,大量の資金が金融資産へと流れていった.
しかしバブルが崩壊すると,長期にわたる経済的低迷が生み出され,工業における生産能力の過剰と過少投資がスタグネーションを引き起こすという,より深い構造的傾向が顕わになった.
このようなバブル崩壊後の低成長は日本が最初に経験したことから,「日本化」と呼ばれている.
米国では2007年に住宅バブルが崩壊し(p.87),翌2008年に金融危機が起きた[リーマンショック].

【note】
p.85の日本のバブル崩壊と米国のリーマンショック後の緊急の対応策とは,ゼロ金利政策のことか.

(テクノロジーの役割)

オートメーション論者が技術的ダイナミズムの増大の結果として描いているものは,実際には,数十年にわたる製造業の生産能力過剰と過少投資によって経済的スタグネーションが深刻化したことの帰結である.
オートメーション論者は生産性の伸び率の上昇が労働需要の衰退の主な要因だと思い込んでいるが,現実には,アウトプットの伸び率の低下こそが主要因なのである.
この誤りは理由のないものではない.
労働需要は生産性の伸び率とアウトプットの伸び率の差によって決定される.
この差の縮小をアウトプットが落ちたのではなく生産性が上がったためだと誤って解釈すれば,オートメーション言説の逆さまの世界が生み出される.

現代社会では,企業は利潤を生むような技術の開発に注力しなければならず,そのような利益優先の技術的進歩によって──少なくともそれだけで──人間が労苦から解放される可能性は極めて低い.
同じ理由で,汎用型人工知能が誕生し「シンギュラリティ」が到来するというのも,オートメーション論者の生み出すファンタジーに過ぎない.
実際フェイスブックのエンジニアたちは汎用性人工知能ではなく,いかにして人々を自社のウェブサイトに依存させるかの研究に多くの時間を費やしている.
またロボット工学においても,労働者への監視を強化する技術ばかりが人気商品になっている.

【note】
斎藤幸平が指摘するように,技術革新は人を労働から解放するどころか,資本家の労働者に対する支配を強化してしまう(斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」第3章).

しかしながら,たとえ技術革新が労働を完全になくすものではないとしても,一部の業種で周期的な雇用破壊が発生するのは避けられない.
というのも,技術によって特定の労働過程が完全にオートメーション化されるケースもありうるからである.
たとえば,20世紀には農業の工業化が可能になり,数百万人の人々が農業から離れることを余儀なくされた.
ただし経済が急速に成長していれば,すぐに新たな雇用が創出されて失われた雇用を代替するはずであり,問題は経済の長期的な低迷である.
21世紀においても新たなテクノロジーは,産業部門における機械化への障害を取り払うことで,労働需要停滞の第二の要因になるかもしれない.
しかし低成長期には企業は生産力を拡大させるような大規模な投資を控える傾向にあるため,そのような技術革新は起きにくくなると考えられる.
コロナ禍はオートメーション化を促すどころか,かえってこの傾向を助長させるだろう.

第4章 労働需要の低迷

オートメーション論者は,完全なオートメーション化によって数十年後には「完全失業」が起こるだろうと主張する.
しかし実際にはオートメーション化による失業率の上昇は見られない.
ただし世界経済が労働需要の低迷に苦しんでいるのは確かであり,それは失業率には反映されないような,多種多様の慢性的な《不完全》雇用(半失業)として顕在化するようになったのである.
すでに多くの論者が指摘しているように,私たちの時代は「雇用なき未来」ではなく「良質な雇用なき未来」へと向かっており,労働者は──たとえ低賃金であっても,短時間労働であっても,劣悪な労働環境であっても──目についた仕事は何でもやるしかない.
そのような状況下で,多くの人は職探しの意欲を完全に失ってしまう.
このような恒常的な労働需要の低迷にたいして,各国の政府は概して雇用者間でワークシェアリングを促進するのではなく,むしろ失業手当を受給しづらいものにし,どんなものであれ──たとえ賃金と技能が低下したとしても──できる仕事に就くように失業者に強制してきたのである.

(どんな仕事にも就く)

失業手当の規模が縮小していくなかで生きていくには,働かざるを得ないため,労働市場がどれだけ劣悪になろうと職を探さなければならない.
このため今日では失業状態にとどまり続ける労働者はほとんどおらず,何の蓄えもない半失業状態の労働者の数が増大している.
これはマルクスの『資本論』で言うところの「相対的過剰人口」に他ならない.
マルクスの時代と異なるのは,国による社会保障制度の違いが,不安定な就労状態が労働人口全体に広がるのか,それとも人口の特殊な部分に留まるのかを決めるという点である.
アメリカ合衆国では労働組合に組織されていない労働者は雇用保障が与えられておらず,企業は職を失えば再就職が困難であるという不安を利用して,意のままに従業員に対する賃金の切り下げなどの締め付けを強化することができた.
2000年代初頭には,大半の学卒者の賃金も停滞を始め,今日では大学の学位を持っていても賃金の下降圧力や劣悪な労働市場から身を守ることは難しい.
ただしアメリカは経済的な不安定性が労働人口全体に浸透しているという点で特異である.
米国以外の大半の高所得国では,雇用危機は年配の労働者の早期退職や既婚女性の就職の拒否といった形で,人口の一部に集中して現れた.
また雇用労働者が自身の雇用を強固に保持しているため,ヨーロッパと東アジアの企業が労働需要の低迷を利用するには,政府に圧力をかけて失業者と新規参入者から雇用保障を引きはがし,いわゆる非典型雇用,すなわちパートタイムや短期雇用,その他の契約上限定的な雇用へと誘導する必要があった.
日本で非典型雇用に相当するのは「非正規雇用」であり,その割合は1968年の17%から2008年には34%へと上昇した.

(世界的規模の過剰労働人口)

非典型雇用の拡大によって,グローバル・サウスを含めた世界全体で膨大な数の人々が大きな雇用不安に直面することになった.
実際,国際労働機関(ILO)によれば,フルタイムかパートタイムかは別として,期間の定めのない何らかの仕事に就いている世界の労働人口は2015年にはたったの26%であり,残りの74%は有期雇用やその他のインフォーマルな雇用形態の労働者か,あるいは自営業者だった.
つまり「非典型雇用」はその名に反して,労働者の大多数を占めているのである.

(脱工業化の憂鬱)

世界中の不完全雇用の大多数は雑多なサービス業で雇用されており,その割合は高所得国では70~80%に達する.
ところで繰り返しになるが,サービス業の生産性の伸び率は工業部門に比べて低い.
洗濯屋や床屋や公共輸送のサービスは既に,洗濯機や安全カミソリや自動車といったセルフサービス製品に変化し,現在サービス業として残っている活動は工業化による生産性の向上が困難である.
他方で技術革新をつうじて停滞的なサービス業を活発な工業に変容させることができたとしても,(これまでの多種多様な家電機器と同様,)旧来の工業以上に生産能力の過剰に苦しむことになるだろう.
さて,経済学者ウィリアム・ボーモルはサービス業における雇用の増加を説明するにあたって,サービス業の生産性の伸び率が低い点に注目する.
サービス部門の価格は,生産性の伸び率の低さによってサービスが工業製品と比較して高価になってしまうという「コスト病」に苦しむことになる.
したがってサービスにおける需要の成長は,経済全体での所得の成長に依存する.
ただし先進国では経済成長率の低下にもかかわらず,法的および制度的枠組みによって不安定就労が認められた職種ではサービス業の雇用が着実に増大している.
まさにここに半失業の論理が働いているのである.
具体的には労働者の賃金を抑えてサービスの価格を下げることで,需要を拡大させることができる.
サービス労働者の賃金は利用者の支払う最終価格のうちの相対的に大きな割合を占めるため,サービス業はこのような極度の搾取による雇用創出にとって最適な部門なのである.
経済協力開発機構(OECD)もまた,失業率を下げるためには低賃金の雇用を大量に生み出すしかないという,歪んだ雇用創出戦略を世界中で唱導してきた.
映画『パラサイト』に巧みに描かれているように,半失業が増大するにつれて,不平等が拡大するのは避けられない.
全体としての経済成長率は低いままであろうから,サービス部門が失業者や労働市場への新規参入者を吸収することができるのは,所得の不平等を拡大し,私たちをさらなる脱工業化の憂鬱へと導いていくことによってのみであろう.
そうした経済部門は半失業状態の労働者のプールを活用することで拡大し,それからその継続的な利用可能性に依存するようになる.

第5章 銀の弾丸?

これまで述べてきたように,労働需要は恒常的に低迷しており,ますます多くの人が,経済に対して有意義なかたちで参加することから,またそれが生み出すはずの主体性と目的意識を抱くことからも──たとえそれが資本主義という悪条件においては限定的だとしても──排除されている.
不安定雇用や不平等によってアトム化が増幅されると,人々は,「自国ファースト」を掲げてグローバリゼーションのもたらす諸問題を解決しようとする経済ナショナリズムに魅了されやすくなる.
しかし関税障壁や国境の壁といったナショナリズム的な解決策は,現在の危機的状況を悪化させるだけである.
では,他にどのような解決策がありうるだろうか?

(ケインズ主義・リローデッド)

はじめにケインズ主義を考えよう.
ケインズ主義とはグローバルな過剰人口を吸収するために,高水準の固定資本投資を促進する方策のことである.
第二次世界大戦後の四半世紀の間には,ケインズ主義的な景気対策のための財政出動を導入した国はほとんどなかった.
しかし生産能力の過剰から脱工業化の波が押し寄せ,労働需要が慢性的に低迷するようになったことを受け,1970年代には景気対策のためのケインズ主義的な財政出動が本格的に始まった.
実際,各国政府の大規模な支出に伴い赤字財政が進行し,1974年から2019年にかけてG20諸国の政府債務の対GDP比は23%から103%に増加している.
また同時期の長期金利はほぼゼロにまで下がっていた.
それにも関わらず,経済成長を回復させることはできなかった.
確かに企業は借り入れを通じて資金を調達したが,それは固定資本の新たな投資にではなく,M&A[合併と買収]や自社株買いに使われたのである.
とは言え,ケインズの予見したポスト希少性社会のビジョンは注目に値する.
ケインズによれば「資本が希少でなくなる点まで」資本が蓄積されれば,利潤率が低下して資本主義は終わりに近づき,余暇社会が訪れる.
そのような成熟経済においては,《労働需要を喚起する》ことよりも《労働供給を縮小させる》ことの方が重要であり,どうしても働きたい人であっても週15時間も働けば十分である.
ただしケインズの夢見たポスト希少性社会に到達するには,投資水準の社会化[引き上げ(p.149)]や労働時間短縮の法制化が必要だということを,ウィリアム・べヴァリッジのようなラディカル・ケイジアンは理解していた.
ところが完全雇用がそのような公共投資によって達成されると,資本家は投資の引き揚げ[打ち切り]などの「資本のストライキ」によって権力を行使することができなくなる.
このため第二次世界大戦終結後に提案された公共投資主導型の完全雇用政策は,力尽くで棄却された.
公共投資主導型の経済に資本を服従させるには,資産所有家の富の存続を脅かすほどの社会運動が必要である.
しかしもし社会運動の側にそれだけの力があるのであれば,国家の力を介した法制化よりも,自分たち自身で運営する民主的組織へ権力を移譲するといった,別の道を選ぶことができるはずである.
これから見るユニヴァーサル・ベーシックインカム(以下,UBI)もまた,この点を見落としている.

【note】
斎藤幸平もまた,「資本のストライキ」に打ち勝つだけの強大な力が社会運動の側にあるなら,医療や高等教育,保育・介護,公共交通機関などをすべて無償化して,脱商品化するといったように,ベーシックインカム以外の道を追求できるはずだと論じている.(斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」第5章)

(自由にお金をばらまく)

オートメーション論者は不安定雇用と半失業をユニヴァーサル・ベーシックインカム(UBI)によって解消しようとする.
UBIとは全ての住民に無条件で支給される,使途[使い道]に制限がない給付金である.
UBIの提唱者は,UBIがすべての個人の努力にたいして共通の投資が行われることを示すことによって,私たちは社会的連帯の感覚を取り戻すことができると主張する.
またUBIはオートメーション化がもたらすグローバルな規模での失業および半失業をポスト希少性の夢へと書き換える技術的解決策であり,左派から右派まで賛同できる中立的な政策手段であるとされる.
もちろん,このようなテクノクラート的中立性は幻想にすぎない.
その実施の仕方次第では,UBIは人類の繁栄には寄与することのない全く別の方向に私たちを導く可能性がある.
そもそも1797年の段階でUBIの発想を先取りしていたトマス・ペインにとって,ベーシックインカムはポスト希少性の世界を生み出すものではなく,それによって誰もが私的所有の世界に参画できるようにし,社会の道徳的基盤を確保するためのものだった.
ハイエクやフリードマンのような20世紀の新自由主義的な経済学者が負の所得税という形のUBIを支持し,それを福祉政策の代替物にしようとしたのも同様に,人々を道徳性の基盤と見なされるところの市場に再び参加できるようにし,価格メカニズムの内部に組み込むためだった.

【note】
ベーシックインカムを導入する代わりに社会福祉を削減するのは本末転倒である.
と言うのも,社会保障制度を縮小すれば,1人の人間がまともな生活をするのに必要なお金はますます大きくなる,つまり給付されるべきベーシック・インカムの金額をより高くしなければならなくなるので,財政的な負担はかえって大きくなるはずだ.
(大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ』第3章1節)

今日,右派によるもっとも極端なUBI論は,悪名高いレイシストの社会批評家チャールズ・マレーの著作に見ることができる.
ただしマレーのUBI論は実のところ,オートメーション論とは大して関係がない.
むしろマレーによれば社会的連帯の紐帯は人間の諸力が国家の諸制度へ疎外されることによって破壊されてしまったのであり(p.153),彼にとってUBIは,社会福祉制度を解体するとともに,各個人に社会的賃金を提供し彼らの時間を解放することによって,道徳的世界に根差した「自発的結社」の形成を促すための手段である.

右派によるこのような提案の特徴は,最初から経済的不平等を解決することを目的としていないということである.
マレーは所得再分配政策を憲法改正によって禁止すべきだとさえ主張しており,このためUBI導入後も不平等は拡大し続けることになる.
マレーのUBI論とは,慢性的な労働需要の低迷に特徴づけられ,不平等がさらに拡大していく社会において,貧困層にはこうした現状を受け入れやすくしつつ,同時に裕福な市場参加者が際限なく富を蓄積できるようにするという憂慮すべきビジョンなのである.
はっきりとしているのは,UBIが導入されるとすれば,それは左派の主張する対案ではなく,このような右派のバージョンに近いものになる危険性が高いということだ.

他方,中道左派のUBI提唱者ヴァン・パリースによるオルタナティブなUBI論は,人々の基本的ニーズを満たすのに十分なだけの給付を,福祉国家を解体することなく実施するよう求めている.
さらに左翼のオートメーション論者スルニチェクとウィリアムズは,UBIをすべての財やサービスを購入できる水準にまで高めて不平等と賃労働を克服し,オートメーション化が進んだポスト希少性の未来を実現することを主張する.
UBIを導入することで労働者は仕事を拒否することができるようになり,経営者は仕事をやりがいのあるものにするか,もしくはオートメーション化して仕事自体をなくすことを余儀なくされるというのである.

(限界)

リベラルで平等主義的な形態をとるUBIには魅力的な側面が多くある.
ただし,たんなるテクノクラート的解決策にとどまらず人類を解放へ導く社会的なプロジェクトにまで発展するには,UBIは諸個人を劇的かつ永続的な社会変革のために闘うようにエンパワーしなければならないであろう.
しかしながら,UBIにそのような効果があるかは疑わしい.
例えばUBIがコミュニティを発展させるとは考えにくい.
実際,ソーシャルメディアアプリは孤独感や社会的孤立の蔓延をさらに深刻化させたのであり,コロナ禍では中産階級の人々は自宅に引きこもって必要な物をオンラインで注文する一方で,大量の配達員が十分な見返りもなく突然リスクにさらされた.
このような事例が示唆しているように,すでに人々の生活様式を市場の内的論理に合致するように変容させ,個々人をアトム的存在に矮小化するよう設計されている経済は容易にUBIに対応[順応]することができるだろう.
また既に強調してきたように,労働需要の低迷は生産性の急速な上昇に起因するものではないのだから,UBIによって分配のあり方を再編成するだけでは不十分である.
さらにUBIが導入されることで,経営者に対する労働者の力が増すというのも,原因と結果を取り違えている.
というのも,社会関係を変革することができるほどに巨額なUBIを勝ち取るためには,そもそも労働者に力がなければならないからだ.
しかし,UBI提唱者は,経済を制御する力を資産所有者からいかに奪い取るかについてほとんど言及していない.

UBIは所得と労働を切り離すという立派な目標を掲げている.
しかしUBIを導入しても,利潤を得ることが経済の原動力であり続ける以上,資本は相変わらず《資本のストライキ》という武器を使うことができる.
このため左派の革新的な計画を実行に移すことは困難であり,UBIが無償の贈与社会への近道となることを想像するよりも,私的所有に基づく今よりもさらに停滞した不平等な社会の支えとして,低水準の給付に固定化されることを想像する方が遥かに容易なのである.
生産を掌握することだけが,最終的には投資決定を制御する力を資本家から剥奪し,資本のストライキを無効化するのであり,ポスト希少性の未来に向かう道を切り開くことができるのである.

第6章 必要性と自由

頑強な新自由主義が民族ナショナリズムを引き起こし,気候危機がますます大規模かつ高頻度になっていく時代に私たちは生きている.
そして私たちは今の社会に代わる具体的なアイデアを持ち合わせていない.
そのような状況下で,ポスト希少性社会に向けた未来を構想しその道筋を描こうとするオートメーション論者の試みは高く評価できる.
多くのオートメーション論者は自由な未来社会の代表作として『新スタートレック』を挙げている.
作品中では「レプリケーター」と呼ばれる高性能な3Dプリンターによって経済的希少性の問題が解決されており,人々は貨幣も市場も存在しない世界で暮らしている.
ここで私が主張したいのは,このような完全なオートメーション化が夢であることが明らかになったとしてもなお,私たちはポスト希少性社会を展望することができるということである.
その際に重要なのは,近年のオートメーション論者の多くが主張してきたような,貨幣の自由な分配ではなく,計画的協働を実現するために私的所有と貨幣を通じた交換を廃止することである.

【note】
つまり斎藤幸平のコミュニズム論と同じく,民主的連帯(アソシエーション)を通じて社会の富を脱商品化(し,コモンとして自治管理)する路線である.(斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」第5章,第6章)

(ポスト希少性の伝統)

もし,突然,すべての人が十分な医療や教育,福祉にアクセスできるようになり,自分たちの能力を最大限発揮することができるようになるとしたら,どうなるだろうか?
個々人の能力を最大限発揮できるような社会においては,各人は全面的な社会の支援を受けながら自身の興味関心や能力を発展させることが可能になるであろう.
また,すべての人の情熱は等しく追求する価値のあるものとなるであろう.
[一部の人がやりがいのある仕事を独占する一方で]特定の人々にごみ収集や皿洗い,保育や土地の耕作,あるいは電子機器の組み立てが一生押し付けられ,それによって他の人々がほしいままに生きることが可能になるということもない.
このような未来を実現するためには,必要な労働を配分するための方法を私たちは考えなければならないのである.

カール・マルクスをはじめとするポスト希少性理論の創始者たちの多くは,ポスト希少性は生産のオートメーション化なしに実現可能だと主張した.
彼らによれば,必要なのはむしろ,社会生活を必然性の領域と自由の領域に再編することなのである.
例えばトマス・モアは,一部の人々が富を得るために貧困や死に追いやられる人々が存在するという明らかに不条理で残忍な初期農業資本主義のシステムに代わって,必要労働を共同でおこない,自由の領域を全ての人が享受できるようにすべきだと主張した.
まさに,彼の著作『ユートピア』においては,「全ての市民が肉体的労働からできるだけ解き放たれ,精神の自由および発展のために時間をさくことができるようになるというのが,この国家の一義的な目的とされる」と述べられている.
怠け者階級──アリストテレスは彼らを自由人と呼ぶ──は解体され,怠ける時間が皆に等しく与えられることになる.
モアの『ユートピア』に感銘を受けたエティエンヌ・カベーは,モアが求めた貨幣と私的所有の廃止に加えて,必要労働の範囲を縮小するために先進的な機械の導入を提起した.
マルクスもまた共産主義の旗印となった有名なスローガン「各人はその能力に応じて,各人はその必要に応じて」をほとんどそのまま,カベーの論文『イカリア旅行記』の「各人はその必要に応じて,各人はその力に応じて」から引用することをためらわなかった.
ポスト希少性についてのマルクスの思想は,大部分,それまでのモア主義者の主張に依拠しているのである.
さらに,マルクスはモアとカベーを超えて,彼らが目標とするポスト希少性の世界はトップダウン的な法律ではなく,大衆行動によってしか実現し得ないと主張した.
だからこそ,マルクスはパリ・コミューンに大きな感銘を受けたのである.
パリ・コミューンは短命に終わったが,労働者たちは民主的な自治政府の新たな様式を発明した.
ピョートル・クロポトキンは後に,民主的に組織されたポスト希少性社会をいかにして構築することができるかについて詳細な記述を残している.
彼は,貨幣と私的所有が廃絶されて必要労働が共同で行われる世界では自発的なアソシエーションが発展していくと考えたのだ.
W・E・B・デュボイスは「未来の産業民主主義社会」においては各人の必要労働はわずか「三時間から六時間」で「十分」になり,「余暇や運動,勉強や趣味のために潤沢な時間」が残されると考えた.
デュボイスによれば,誰かが芸術にふけるために他の人々に「雑用」を押し付けるのではなく,我々の「皆が芸術家となり,皆が他人のために働く」ことになるであろう.
のちに「社会主義」や「共産主義」がスターリニズム的な計画経済や急激な産業化と同一視されてしまうまでは,まさにこのようなポスト希少性のビジョンこそが,多くの人にとって「社会主義」や「共産主義」という言葉が意味するものだったのである.

【note】
斎藤幸平も社会主義に対する誤解を解くための議論を行っている.
社会主義を標榜するソ連や中国の実態は,生産手段を国有化し,官僚が労働者を搾取する独裁的な「国家資本主義」であり,社会主義の理想からかけ離れている.
私たちの目指す未来社会は,民主的なボトムアップ型の自発的連帯(アソシエーション)を通じて「脱商品化」を推し進め,貨幣なしで暮らせる社会の領域を広げることであり,これこそがマルクスの構想する「社会主義」ないし「コミュニズム」である.
(斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」第5章)

(協働的正義)

必然性の領域における必要労働の正確な範囲は,民主的な議論をつうじて決定されなければならないであろう.
いずれにせよ,それは生活に必要な全ての財やサービスを含むことになるだろう(住居や食料,衣料,共有の中間財や最終財,公共衛生,水道,電力,医療,教育,保育,介護,情報通信や交通手段,等々).
一般的に,ポスト希少性論者はこのような共同労働は一日あたり平均3時間から5時間(現在の標準労働時間の約3分の1から5分の1)になると概算している.
必要労働の配分にあたっては,個々人の適性や嗜好を考慮することもできるだろう.
もちろん,必要労働の多くは,専門的スキルが必要になるため,私たちは農民や建設労働者,医師,電気工事士,機械工などを依然として必要とするだろう.
とは言え,諸個人の能力が最大限発揮される社会においては,このような専門性もより均等に配分されることになるだろう.
ユートピア小説家のエドワード・ベラミーは小説『顧みれば』(1888年)において,ポスト希少性社会の分業を組織する方法として,熟練を要する仕事は高額の支払いによってではなく,労働時間の短縮というかたちで報われることを提案している.

【note】
斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」p.213にも同様の提案が見られる.

このようなワークシェアリングの結果,現在余剰労働者とされている人々も含め,より多くの人々が必要労働に関わることになり,それに応じて一個人が行わなければならない仕事量は減少する.
障害のある人に手当が支給されるのはもちろんのこと,長期間まったく労働に従事しなくてもよいようにするための手当も万人に支給される.
人々はその間,休息したり,旅行に行ったり,悲嘆にくれたり,カルチュラル・イマージョンに取り組んだりすることができる.
歴史的に女性を世帯内生産の「隠れ家」に追いやってきた,アンペイドワークとペイドワークとの社会的区別も廃止されなければならないだろう.

このような最初の変革が完了すれば,資本主義社会においては資本の支配を具現化するために設計されていたテクノロジーを,人類の共同的な意思決定の下で利用できるようになる.
たとえそれによって苦役がなくならず,また将来的にもなくならないとしても,必要労働を配分すれば自由な生き方自体はいますぐ実現可能である.
また必要労働は,それを長時間強いられることがない限り,人生に満足感を与えてくれもする.

【note】
斎藤幸平も述べているように,AIによって労働そのものをなくしてしまおうという発想は,問題の所在を取り違えてる.(斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」p.123)

ポスト希少性の伝統においては,必要労働の再編によって物を無償で提供する社会が可能になる.
誰もが社会的倉庫やサービスセンターに立ち寄ってほしいものを持っていくことができるが,モアが言うように「その代わりになにかを提供することはまったくない」.
つまり,全ての人に,必要労働への貢献と関係なく,食料や飲み物,衣服,住居,医療,教育,交通と通信手段などを享受する権利があるのであり,それは「ちょうど全ての人に太陽の熱で自身の体を温める権利」があるのと同じことなのだ──エコロジカルな持続可能性によって制約が課せられることにはなるだろうが.
人々は,電車に乗ったり,地元の食堂に立ち寄ったり,歯医者に行ったり,保育園に子供を連れて行ったり,職業訓練コースに通ったり,あるいは,そこに泊まる権利があるということを証明することなく寝床を見つけることができるであろう.
これらの社会的財へのアクセスから誰かを排除することはできなくなるだろう.
このときすべての人々は「どうやったら生き続けられるか」ではなく「生きている間に何をするのか」を問うことが可能になる.
そしてこのようなポスト希少性の潤沢さは,達成されるべき技術的目標ではなく,むしろ社会関係である.
なお人々を必要労働に駆り立てることのできる理想的なモチベーションはあくまで,自律性や熟練,目標といった労働自体の魅力であり,高水準の金銭的報酬,あるいは制裁や飢餓への恐怖ではない.

ポスト希少性社会を構築するのに,21世紀の私たちは計画アルゴリズムを用いてデータを処理し代替案を提示することができる.
しかしそれだけでなく,重要なのは計画プロトコルによって,アソシエーションの側で代替案に基づく公正かつ合理的な判断を下すことである[詳細は巻末の補論].

(万人に自由時間を)

私たちが資本と呼ぶものは,ポスト希少性社会においては《私たちが共有する社会的相続物》[コモンズ]として認識されるだろう.
さて,必然性の領域が再建されれば,万人の自由の領域も拡大し,誰もが自由に自らの個性を発展させることができるようになる.
そのとき人々は労働それ自体を克服するのではなく,むしろ芸術や学問のような,労働なのか余暇なのか簡単に分類することができないような活動に,自由に取り組むことができるようになる.
また人々は世界中の他者とともに,数学者の連合体や新楽器を開発するクラブ,あるいは宇宙船建設のための連盟といった,自発的なアソシエーションに参加することが可能になるだろう.
人々はやりたいことだけやればいいのだ.
さらに[生きていくには周りの人間関係から容易に逃れられない現代の資本主義社会と違って,]人々は家庭や職場での抑圧的な人間関係から自由に離脱したり,そうした関係を変えるために交渉したりできるようになる.

このような状況では,世界は必要な活動と自由な活動を相互に関係付けるような,重なり合う部分的なプランの複合体となるだろう.
具体的には必然性の領域は,市場での競争によって強制されることなく,自発的な各アソシエーションやそれらの間の連合体における民主的決定を通じて,自由の領域におけるイノベーションをゆっくり導入していく可能性が高い.
ここで成長はもはや絶対的な目標ではない.
[むしろ際限なく「成長」を求める資本主義から脱却することこそ人類の成長であり,経済成長の意味での「成長」の呪縛から解放された余暇社会においてこそ,人々は自由に成長できる.]

ポスト希少性社会で人々が実際に真っ先に行うことは──万人の基本的なニーズを満たすことを保障することに加えて──人類の持つ集団的な資源と知の大部分を動員して,気候変動を緩和し,反転させることであり,また植民地支配によって生じた数世紀にわたる不平等を解決することになるだろう.

以上の思考実験で示したように,技術革新によるオートメーション化がなくとも,望めば必要労働を民主的に再配分し,ポスト希少性と自由な余暇社会を,私たちは既に実現できるのである.

あとがき 変革の担い手

ポスト希少性世界をもたらすことができるのは,テクノロジーの進歩でもテクノクラート的な改良でもなく,社会運動の圧力だけである.
残念ながらスルニチェクとウィリアムズは,現存する社会的闘争を「素朴政治」として過小評価している.
しかし2008年の危機以降,社会的闘争はここ数十年で見られなかった規模で世界に広がっている.
2019年にも世界中で大衆的抗議運動が再度噴出した.
大多数の人々がふたたびストライキや占拠運動,道路封鎖,暴動,デモに参加し,格差の拡大や雇用不安,政府の腐敗や緊縮財政,食糧,エネルギー,交通手段の価格の高騰などの,長期にわたる労働需要の低下が引き起こした問題に抗議した.
かつて敗北した労働運動の時代とは違い,私たちは脱工業化の憂鬱を生きており,現代の社会運動には開放的な社会変革を目指すラディカル化した新たな世代も参加している.
これらは大きな希望である.
しかしながら現代の抗議運動は,[今と]全く異なった世界についてのビジョンを欠いてきた.
すなわち,資本主義社会のインフラが民主的なコントロールのもとにおかれ,労働が再編成され再配分され,希少性が財とサービスの無償提供によって克服され,それらをつうじて生存の保障と自由の新たな見通しが開かれ,人間の能力が拡張されていくというビジョンを欠いてきたのである.
私たちに必要なのは,ポスト希少性世界のビジョンと,それを実現するための社会的闘争である.

監訳者解説より

以上のあとがきの補足として,巻末の監訳者(佐々木隆治)による解説の後半部分をまとめる.
20世紀型の政治中心主義的な左派運動の行き詰まりを背景として,近年,ボトムアップ的な社会運動が盛んに行われるようになった.
しかしスルニチェクたちはそれらを「素朴政治」と特徴付け,その局地的,直接行動的,一時的,特殊的性格を脱却し,グローバルで,直接行動にとどまらない,継続的かつ普遍的なビジョンを打ち出すことなしには,ネオリベラリズムを克服した新しい社会を実現することはできないと主張する.
もちろん国家も資本主義システムに依拠している以上,政治主義的変革構想の陥穽を回避するには,ボトムアップ型の水平主義的な社会運動ないし草の根的な直接民主主義的な社会運動は不可欠である.
しかしながら社会全体に対して長期にわたる影響を及ぼすには,より体系的なポスト資本主義社会にむけてのビジョンもまた必要とされているのである.

2011年以降,社会運動がラディカル化し,気候危機のもとで「ジェネレーション・レフト」と呼ばれる新たな世代が台頭しつつある世界の動向とは対照的に,日本ではリベラル・左派政党が右傾化の一途をたどり,社会運動も停滞したままである.
しかし,リベラル・左派の衰退のなかからこれまでの日本の運動の地勢図にとらわれない若い世代が登場しつつある.
そうであるかぎり,今後,この日本でも新しいラディカルな左派の再建が重要な課題となっていくであろう.
その際,様々な個人や団体が想像力豊かな変革構想を練り上げていくうえで肝要なのは,過去の運動経験の理論的総括を踏まえて新たなビジョンを打ち出していくことである.

補論 鉛筆の作り方 望めば資本主義は終わる

[最後の補論では,ポスト希少性の未来において,人々が民主的に生産を管理するための著者ベナナフの構想が示されている.]

社会主義経済はどのようなものになるだろうか?
「デジタル社会主義者」は,コンピューターのアルゴリズムが計画経済を運営するための鍵になると考える.
ウォルマートやアマゾンといった大企業はすでにデジタル技術を社内の計画立案に用いており,いまや必要なのはこれらを社会主義に適合させるだけだというのである.
しかしアルゴリズムを重視するデジタル社会主義は,意思決定プロセスを《最適化》──最小の資源を用いて生産量を最大化する──という狭い観点に限定させてしまうというリスクをはらんでいる.
このとき正義や公正,労働の質,持続可能性といった,量的には表現しづらい質的な情報の多くを無視し排除することになってしまう.
つまり,計画アルゴリズムがどれほど強力であろうと,最適化の問題に還元できない政治的次元が残り続けるのである.
確かにアルゴリズムは私たちが採りうる選択肢をはっきりさせてくれる.
しかし最終的な決定を下すのは,コンピューターではなく,人間でなければならない.
そして人間たちが共同で合理的な決定を下すには,意思決定のルールを明確化した,事前に合意された手続き,すなわち計画プロトコルが必要である.
アルゴリズムとプロトコルの双方が機能することで,資本主義もソ連型社会主義も達成できなかった,真に人間的な生産様式が生み出されるのである.

(ザ・プライス・イズ・ライト)

右派経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは,社会主義的な計画化の実現可能性を真っ向から否定し,長きにわたる「社会主義計算論争」を引き起こした.
ミーゼスによれば,近代経済の効率性は,それが市場をつうじて,市場と結びついた貨幣と私的所有という制度に組織されていることと密接不可分である.
実際,市場はあらゆる生産者にたいして適正な価格をつけるよう圧力をかける.
すると例えば鉛筆製造者は,グラファイト,木材,塗料といったあらゆる「中間財」の価格を比較して,最も安価な選択肢を選ぶことができる.
このように価格なしには,資産の合理的な配分は不可能であり,社会主義の計画立案者たちが市場に代わる複雑なシステムを再生産することは絶対にできないとミーゼスは考えた.

(致命的な誤り)

資本主義についてのミーゼスの議論において印象的なのは,それがすでに優れてアルゴリズム的なものであることだ.
ミーゼスの説明においては,鉛筆工場の経営者はコンピューターのプログラムのように行動する.
社会主義者の多くはミーゼスのこのような議論に対して,あくまでミーゼスの基本的な前提を受け入れた上で,自分自身のアルゴリズムを書くことによって反論した.
しかしそれでは,ミーゼスの批判に対して十分な反論を行うことができていない.
ミーゼスの議論の問題点は,彼が最終財の生産者にたいして中間財をいかに配分するかしか考えていないことに関係している.
なるほど,いかなる形の経済においても,それが機能するには,人々が意思決定に参加することが不可欠であると主張した点では,ミーゼスや彼の弟子のフリードリヒ・ハイエクは正しかった.
しかし彼らの資本主義のビジョンでは,そのような主体性を発揮することができるのは一部の経営者に限られており,経営者らはある町で大量の労働者が失業することになろうとも,住民の意見を聞くことなく工場を他の地域へ移転させることができる.
これに対し社会主義社会においてはすべての人々が生産を管理する.
このとき人々は生産の効率性だけでなく,尊厳,正義,コミュニティ,持続可能性といった,単一の量的な計算単位に還元することのできない価値観も考慮するだろう.
それらは容易にアルゴリズムによって定量的に扱うことができない,質的ないし政治的な次元に属しており,まさにこの混沌のなかにしか,社会主義の内容を見つけることはできないのである.

(プロトコルを作る)

繰り返しになるが,資本主義経済において経営者が費用対効果について明確な決定を下すことができるのは,コミュニティを破壊したり,労働者を悲惨な状況に追い込んだり,再生可能ではない資源を枯渇させたり,世界をゴミで埋め尽くしたり,というような,彼らの決定がもたらす非経済的コストを無視できるからにほかならない.
企業レベルでの経済合理的な判断が合成することによって,ますます非合理的な社会になっていくのである.
それゆえ,社会主義者は,計画化メカニズムに様々な質的要素をそれ自体として追求されるべきものとして,直接的に導入する方法を見つけ出さねばならず,生活のすべての質的および量的要素をアルゴリズムで最適化可能な単一の尺度に変換する,価格システムを延長した通約可能性は克服すべき課題となる.
通約不可能な多様な基準に基づいて集団で民主的に計画の決定を行うには,事前に合意された手続きが必要となる.
それこそがプロトコルであり,投票による単純な多数決からオークションのような入札を用いた複雑なやり方まで,様々な方法が考えられる.
ウィーンの哲学者オットー・ノイラートは1925年の論文「経済計画と現物計算」において,事実上の計画プロトコルについての考えを提示している.
それによれば,まず専門の計画立案者がアルゴリズム的計算を行うことで,計画を少数の明確な選択肢に絞り込む(それにより会議が延々と続くような事態はなくなる).
次いで人々は[プロトコルに基づき],少数の計画を多様な基準に基づいて評価し,他の人の意見を聞いたり,懸念を表明したり,投票することによって,どれがよいかを決めるのである.
ただしさまざまな産業や職場,あるいはそれらの間で意思決定の調整を行うには,社会全体を包括する単一のプロトコルではなく,多様なプロトコル,すなわち人々が共同で決定をおこなうことを可能にする構造化された多様なコミュニケーションの形態が必要である.
それは簡単に使用でき,結果の透明性があり,常に修正可能でなければならない.

(自由にアソーシエイトした生産者)

ここで単純に,多くの人々は生産についての決定を行うために必要な実践的な知識をほとんど持っていないことに注意しよう.
それゆえ,それぞれの決定への参加は,一般的には,関係者やその決定によって影響を被る人々に限定される必要がある.
そして,誰もが関係するような決定に関してのみ社会全体で決めることになる.
つまり生産についての真に民主的な意思決定のためには,調整は多くの場合,アソシエーションの内部やアソシエーションの間で行われるべきなのである.

【note】関連:入れ子構造のガバナンス
これは山本眞人『コモンズ思考をマッピングする ポスト資本主義的ガバナンスへ』の第1章2節で紹介されている「入れ子構造のガバナンス」を想起させる.
市民が数千人くらいの規模を超えるようになると,直接民主主義的政治システムは機能しなくなる.
これに対し「入れ子構造のガバナンス」では,まず比較的小規模の自治コミュニティ内で評議を行い,地域ごとの条件に合った共用資源の利用ルールを決める.
また複数のコミュニティ間にまたがる共用資源の利用ルールは,各コミュニティの代表が集まる中位の評議会で協議され,さらにより大きなスケールの共用資源の利用ルールは,中位の評議会の代表が集まる上位の評議会で協議される.
このようにコミュニティが入れ子構造となって,何層かのガバナンス・システムが構成される.
ここで重要なのは,上位の仕組みが作られて行っても,基本ユニットとなる小さなスケールのコミュニティの自立性と固有性が妨げられることがないということだ.
例えばスペイン・ムルシアの灌漑システムやボリビアのアイユ民族主義ではこの「入れ子構造のガバナンス」が現に機能しており,これらの事例は民主主義のあり方を考える上で示唆に富んでいる.

ノイラートが望んだのは,評議会やギルド,その他のアソシエーションが市場原理やアルゴリズム社会主義とは別の方法を発見することであった.
とりわけ,計画プロトコルを用いることで,さまざまな 「働き方」を──「一つの単位に還元する」ことのできない様々な異なる基準を考慮して──自分たちで直接に比較しながら,互いに協働して社会全体の目標を達成することができるとノイラートは考えたのである.
今日のデジタルテクノロジーはこのような比較や協働を容易にするだろう.
鉛筆生産者のアソシエーションはアルゴリズムによってトークンや「ポイント」を──経済学者ダニエル・サロのデジタル社会主義モデルのように──割り当てられており,アソシエーションはこれらを使ってグラファイトや木材,そしてその他の中間財の入札をおこない,最適な方法で鉛筆を製造しようとするだろう.
その際,鉛筆製造のアソシエーションは定期的にグラファイトを消費する他のアソシエーションと会合をもつであろう.
彼らは既存の資源配分のパターンを検討しながら,より大きな社会的目標も考慮し,それにもとづいてグラファイトの配分プロトコルを修正するであろう.

(鉛筆製造者のダンスクラブ)

最後に,社会主義者は労働を人間的自由の最高の表現だと見なしてきた.
しかし,資本主義的な成長という義務に縛られない世界においては,テクノロジーを[労働者の支配ではなく]労働時間の短縮のために用いることができ,すべての個人は労働中心のアイデンティティの外部で自らの人格性を発展させることができるだろう.
世界の鉛筆製造者は,専門的なジムやダンスクラブを始めたり,劇団に入ったり,アマチュアの科学学会を作ったりするなど,もっと広範な目標を達成するために自由に時間を使うだろう.
私たちは,この目標を達成してくれるような人工知能のブレークスルーを待つのではなく,今日から,未来のプロトコルの開発を始めるべきである.

【note】関連:学問を続けるには研究者になるしかない?
私は昔から「物理の勉強がしたい」と言うと,「では将来は研究者ですね」と返されることに違和感を覚えていた.
自分勝手を承知であえて正直に言えば,私は個人的に勉強がしたかったのであって,必ずしも研究がしたかったわけではないからだ.
しかし考えてみれば,「将来は研究者ですね」というような応答も無理はない.
と言うのも,かつて興味本位で科学に取り組むことが許されたのは貴族や有閑階級の人間に限られていたのと同様,人生の大半を労働時間に充てることを余儀なくされる現代の資本主義社会にあっては,長期的に学問に携わることが世間的に認められている正当な立場は研究職くらいしかないからだ.
今思えば,これは資本主義の構造的な問題なのである.
必要労働の再配分により労働時間が大幅に短縮したポスト希少性の世界においては,万人がまとまった時間を気兼ねなく(そして研究成果を要求されることもなく),趣味や遊びとしての学問に費やすことができるようになるだろう(他方で研究者もまた「社会の役に立つ研究をしろ」という抑圧的な倫理観から解放される).
また受験勉強はなくならないとしても,今ほど苛烈なものではなくなり,多少は有意義なものとなるかもしれない.

追記:「研究」と「勉強」の二元論について
個人が教科書を独学することなどもまた,言葉の原義からすれば本来,立派な「研究」と呼ぶことができ,「勉強」は「研究」に含まれていると見なすこともできるかもしれない.
「研究」を一般に想像されるような,大学などの研究機関における営みに限定してしまうと,「研究」の範囲を矮小化すると同時に,「勉強」の尊厳を貶めることになりはしないか.
國分功一郎は『〈責任〉の生成』p.318で,「二元論は何かを隠蔽してい」ると示唆している.
ランダウ=リフシッツ『理論物理学教程』では「……を研究しよう」といった表現がしばしば用いられている.
また木村あやが指摘しているように,「歴史的には,科学的な知識というのはアマチュアと専門家の垣根が曖昧なところからできてきたので,現在のように専門化が進んだのは19世紀以降のことでしか」ないということも思い出しておきたい(斎藤幸平,松本卓也ほか『コモンの「自治」論』p.126).
ポスト資本主義における科学は,専門化によって分断されたアマチュアによる「勉強」と専門家による「研究」を再統一し,肩書ではなく内実が問われるようになる契機となるかもしれない.