まずは資本主義・新自由主義的なイデオロギーに対抗する哲学としてSpinoza描像を導入し,「資本主義の克服」というテーマ・問題意識への1つの手引きとしよう:
次に斎藤幸平『カール・マルクス 資本論』の要約を通して,マルクス『資本論』に基づく資本主義の批判を展開し,ポスト資本主義を構想する.
(斎藤幸平,2021,NHK 100分 de 名著 カール・マルクス 資本論 蘇る,実践の書,NHK 出版,東京.)
【PDF】資本主義の克服 (斎藤幸平『カール・マルクス 資本論』)
後に同著を原型として,斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」が出版された.
【動画スライド(原稿付き)】斎藤幸平「ゼロからの『資本論』」まとめ──お金の要らない世界 (脱商品コミュニズム) へ
はじめに 人新世の危機に蘇るマルクス
カール・マルクス(1818—1883年)の主著『資本論』は,当時,人々の暮らしを激変させていた「資本主義」のメカニズムを徹底的に解析し,その矛盾や限界を明らかにした名著である.
グローバル化が一気に進み,「新自由主義」という名の市場原理主義が世界を席巻している現在,金融危機,経済の長期停滞,貧困やブラック企業といった数多くの危機が顕在化している.
そして新型コロナウイルスのパンデミックと気候変動による異常気象が私たちの文明的生活を脅かしている.
(人類の経済活動が地球のあり方を根本的に変えてしまうという意味で,地質学の概念を用いて現在は「人新世(ひとしんせい)」に属していると言われる.)
これらの問題の根本原因は資本主義であり,それ故,問題解決のためには資本主義から脱却する必要があると考えられる.
そこでマルクスの『資本論』が重要となる.
我々は特に「資本主義の暴力性」という論点に注目し,以下の4回にわたって『資本論』を読み解いていく.
第1回 「商品」に振り回される私たち
第2回 なぜ過労死はなくならないのか
第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む!?
(注) 「クソどうでもいい仕事」(ブルシット・ジョブ)はそのような社会問題を指す,れっきとした学術用語である
第4回 〈コモン〉の再生──晩期マルクスのエコロジーとコミュニズム
(注) マルクスが構想した「コミュニズム」は,ソ連や中国のような中央集権的な社会主義とは異なる[第4回].
第1回 「商品」に振り回される私たち
「富」とは本来,必ずしも貨幣で計測できるものに限らない.
例えばきれいな空気や水,緑豊かな森,誰もが思い思いに憩える公園,地域の図書館や公民館があることも社会の「富」である.
そしてマルクスによれば,自然に働きかけることでこの「富」を維持・発展させるのが労働である(この定義によれば,お金を稼ぐことだけが労働ではない).
ところが資本主義では社会の「富」が,次々と「商品」に姿を変えていく.
今は生活に必要な物のほぼすべてが「商品」として売られ,「商品」に頼らずに生きることは,もはや不可能と言っても過言ではない.
- 商品化の例:ペットボトルの水
- 商品として定着したのはここ20年くらいのことであり,
以前は水道水をタダで飲めた.
- 商品として定着したのはここ20年くらいのことであり,
- 資本主義以前の商品は交易品や贅沢品に限られた.
- 日常の生活に必要な物は自分たちで作ったり,集めてきたり,
分け合いながら暮らしていた.
- 日常の生活に必要な物は自分たちで作ったり,集めてきたり,
マルクスの時代,森(の資源)や水のように,かつては誰もがアクセスできるコモン(共有財産)だった「富」が,資本によって私的財産として囲い込まれ,独占された.
そして囲い込みによって農地などを締め出された人々は「賃労働者」として資本家に労働力を提供し,さらに「商品」の買い手となって資本家に市場をも提供した.
【囲い込み】
15—17世紀のイギリスで,地主・領主による農地の非合法な囲い込みが行われた(第1次囲い込み).
これに対して18—19世紀のイギリスで地主層により“合法的”に行われた土地の囲い込みを第2次囲い込みと呼ぶ.
資本主義以前の労働は,基本的には具体的な「人間の欲求を満たす」ための労働であった.
人間の欲求は無限ではないので,こうした生産活動には一定の限界がある.
これに対し資本主義社会では「資本を増やす」こと自体が目的となっているため(第2回),利潤追求・目先の金儲けを止められない(たとえそれが社会の「富」の破壊をもたらそうとも).
例えばアマゾンのCEOジェフ・ベゾスは,資産が2000億ドルを超えても引退しない[できない(第2回)].
資本主義社会では,人々の生活に本当に必要・重要な(使用価値のある)物よりも,「売れそう」(「価値」[交換価値]のありそう)な物が,優先的に「商品」として生産される.
そして「価値」[交換価値]のためにモノを作る資本主義の下では,人間がモノに振り回され,支配されるようになる(物象化):
- タピオカドリンクの流行 → 追随する企業が現れて売れなくなる
- マスク
- 平時にはマスクは「売れない」ため,備蓄を削減
→ コロナ禍でのマスク不足と高価格での転売 - いったんマスクが売れるとなると畑違いの企業がマスク市場に続々と参入し,
在庫過剰になって価格が暴落 → 叩き売り
- 平時にはマスクは「売れない」ため,備蓄を削減
- コロナ禍でも経済を回していくための「GO TOキャンペーン」
- 実際には経済を「回させられている」
資本主義経済の停滞が顕著になった20世紀後半では,各国は「新自由主義」の下,公共事業の民営化や規制緩和による市場の自由化を進めていった.
市場に委ねた方が,競争原理が働いて,効率が良いと考えたのである.
しかしながら市場にアクセスできるのはお金を持っている人に限られる以上,市場は決して“民主的”ではあり得ない.
民営化の実態は特定企業による権利独占であり,「商品」の領域を広げる現代版「コモンの囲い込み」である.
民営化が進んだことで,公営・国有だった時代にはアクセスできていた医療や教育のような公共サービスから,多くの人が締め出されることになった.
【新自由主義】
18世紀に登場した古典的自由主義は,絶対王政の「過剰統治」と国家の肥大化を批判し,市場の論理に基づく市民社会の自律性を謳った.
一方,1980年代に登場した新自由主義は,ケインズ主義的福祉国家の所得再分配政策などがもたらす「過剰統治」と国家の肥大化こそがシステムの機能不全の原因であるとして,規制緩和・福祉削減・緊縮財政・自己責任などを旗印に台頭し,資本主導のグローバリゼーションの時代の経済思想・政策の一大潮流となった.
【J.M.ケインズ】(p.68欄外より)
主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)では,失業と不況の原因を明らかにし,その克服のために,自由放任主義の経済にかわって政府による経済への積極的介入を主張.
この提言が各国で採用されて資本主義に大きな変革をもたらしたことを〈ケインズ革命〉と呼ぶ.
また「使用価値」を無視した効率化は,必要な物やサービスまで削り,あるいは質を低下させて,社会の富を貧しくしていく.
- 公立図書館(ほとんどの都道府県で,図書館で働く人の半数以上が非常勤)
- 貴重な資料が適切に保管されなかったり,レファレンス(資料を照会・検索して
情報提供する仕事)の精度が保てなかったりすることになりかねない
- 貴重な資料が適切に保管されなかったり,レファレンス(資料を照会・検索して
- 公園を複合施設にし,その一角に公園の風情を残す「再開発」という名の「囲い込み」
- 「公立」公園なのに,お金のない人には「行けない場所」になってしまう
現代社会では商品に頼らずに生きていくことは,もはや不可能であり,それを手に入れるにはお金が必要である.
しかしながら,必死に働いても生活に十分なお金を手に入れることができず,借金,貧困,過労死,失業の脅威に晒され続けている人がたくさんいる.
他方でまさに大勢の人々が富へのアクセスを失うことによって,一部の人はますますお金を貯め込んでいる.
この対立と格差を広げているのが,「資本主義的生産様式」──価値を増やし,資本を増やすことを目的とする商品生産──によって歪められた「労働」である.
このような資本主義のメカニズムを理解すれば,直ちにその矛盾を解消できるわけではないとしても,マルクスの言うように苦しみを短縮し,治療法をより早く見つけることができるだろう.
第2回 なぜ過労死はなくならないのか
マルクスによれば,資本とは価値の自己増殖(金儲け)の“運動”であり,貨幣G (Geld)で物W (Ware)を作り,売り上げG’を得ることを繰り返すため,「G-W-G’ (ゲー・ヴェー・ゲー)」という式で表される.
これに対し使用価値のために生産が行われる社会にあったのは,W-G-W’という循環であり(自分が所有する物Wを売って得た貨幣Gによって,欲しかった物W’を手に入れる),価値増殖を目的とした循環G-W-G’とは本質的に異なる.
資本の運動が自動化されて社会全体を覆うようになると,人間も自然も,その運動に従属して,利用される存在に格下げされてしまう(自然については第4回).
アマゾンのCEOベゾスのような資本家ですら,自動化された価値増殖運動の歯車でしかない.
資本家が資産を増やし続けるのは,決して彼らが金の亡者だからではなく,競争力をつけて儲け続けなければ他社とのシェア争いに敗れて淘汰され,従業員の賃金を払うどころではなくなるからである.
労働者が置かれた立場の不合理や,資本が引き起こす深刻な労働問題に踏み込む前に,まずは資本家が価値を増やして資本を蓄積する仕組みを簡単に見ていこう.
例えば資本家が日給1万円を払って労働者を1日働かせ,1万6000円の商品が生み出された場合,差額の剰余価値6000円が資本家の儲けとなる.
ここで資本家が1万円で買っているのは,「労働」(が生み出す価値)ではなく,あくまで「労働力」(という商品の価値)であるため,1日分の労働力をどう使うかは資本家の自由であり,6000円を搾取することが正当化される.
そして同じ日給で1日の労働時間を増やせば,資本家は追加の剰余価値(絶対剰余価値と呼ぶ)を手にすることができるため,傾向として労働時間が長くなっていくのは必至である.
[時給制を仮定するとこのような事情は見えづらくなる.]
これが日本でも蔓延している長時間労働,サービス残業である.
労働力は本来「富」の1つであり,資本主義はこれを「商品」に閉じ込め,破壊していく.
長時間労働は労働者の心身を蝕み,ときには命さえも奪っていく.
- 2008年に居酒屋チェーン「和民」で起きた過労自殺事件
- 2015年に電通で入社1年目の女性が過労自殺した事件
- 今世紀以降の労災の申請・認定件数における,鬱などの精神疾患の増加
自殺に追い込まれるほど過酷な長時間労働に,なぜ労働者は抗えないのか.
コモンが「囲い込み」によって解体された帰結として(第1回),私たちは生産手段から切り離され“フリー”になってしまったため,大半の人々は自給自足できない.
そこで普通の人がお金を手に入れるために売ることができるのは,唯一,自分自身の労働力だけである.
また共同体の相互扶助,助け合いの関係性からも“フリー”になった資本主義社会では,誰も生存保証をしてくれない.
体を壊したり,失業したりすれば生活が立ちゆかなくなって,ホームレスになってしまうかもしれない.
- 「潜在的貧民」(マルクス)
- 「すべり台社会」(湯浅誠)
- 日本はセーフティーネットが脆弱で
一度仕事を失うと一気に生活保護まで落ちてしまう
- 日本はセーフティーネットが脆弱で
しかしながら労働者を突き動かしているのは,「仕事を失ったら生活できなくなる」という恐怖よりも,「自分で選んで,自発的に働いているのだ」という自負である.
実際には労働者の「自由」は自分の労働力を売る(好きな仕事に就く)ところまでで,一度,労働力を売ってしまえば,後は奴隷とあまり変わらない(好き勝手に働けばクビになるだけ)にも関わらず,である.
(就活の面接で,「なんでもやります!」と自分の自由を進んで手放した経験のある人は多いだろう.)
自由で自発的な労働者は,資本家にとって都合のよい労働者像を,あたかも自分が目指すべき姿,人間として優れた姿だと思い込むようになっていく(「魂の包摂」(白井聡)):
- 無理やり働かされている奴隷よりもよく働き,いい仕事をする
- ミスをしたら自分を責め,理不尽なことさえも受け入れる
- 高度成長期の「モーレツ社員」
- バブル期の栄養ドリンクのキャッチフレーズ「24時間戦えますか」
資本主義社会では,労働者の自発的な責任感や向上心,主体性といったものが,資本の論理に「包摂」されていく.
研究投資が削られ,イノベーションによって価値を生み出すことも難しくなっている今,企業が収益を上げるために採り得る方策は,さらに労働時間を長くすること,もしくは賃金をカットすることである.
労働運動や労使交渉では賃上げが最大の争点となっているが,マルクスは賃上げ以上に「労働日の制限(短縮)」が重要だと指摘している.
賃金を少しばかり上げても,その代わり労働者が “自発的に”頑張ることになり,長時間労働が解消されないならば意味がない.
それでは資本家の儲けはかえって増えることになりかねず,また人々が忙しくなれば外食や洗濯乾燥機,家事代行といった資本家のビジネスチャンスが広がっていくことになる.
日々の豊かな暮らしという「富」──子供と遊んだり,趣味を楽しんだり,本を読んだり,人生について考えたり──を守るには,労働時間を短縮し,自分たちの労働力を「商品」として売る領域を制限していかなければならない.
- 労働時間を延長する傾向
- テレワーク,リモート会議,ワーケーション(work+vacation,休暇中の旅行先でのテレワーク)により,仕事とプライベートな時間の境界が曖昧になる.
- プライベートな楽しみとしてグーグルやフェイスブックを使うとき,
データという商品を(タダで)彼らに渡していることになる.
IT界の巨人たちはますます資産を増やしていく.
[グーグルやアマゾンが剰余価値としての個人情報をどのように利用して稼いでいるのかは,大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』pp.224—231に詳しい.グーグルの利潤はサイバースペースの中の,偽装された共有地と私有地のギャップから生まれている.]
- 労働時間を短縮する傾向
- サンナ・マリン首相(フィンランド)による「週休3日,1日6時間勤務」の目標
- ドイツの労働組合「IG(イーゲー)メタル」による週休3日の提案
日本では生活保護バッシングにも見られるように,「働かざる者食うべからず」という勤労倫理は,ますます強化されている.
そして,副業が推奨され,休みの日には自己啓発セミナーが賑わっている.
本当にそれでいいのだろうか.
第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む!?
ケインズは生産力が上がれば,労働時間が短くなって余暇社会が訪れると予言した.
確かに資本主義の発展に伴い生産力は飛躍的に伸び,ロボット開発やAI研究が進んで人間の労働は減ったものの,労働時間が減ることはなく,むしろそのせいで「働けなくなる」という恐怖心から,私たちはかつてないほど労働へと駆り立てられている.
実際,誰でもできるような無意味で無内容な仕事を,私たちはクビにならないように必死に,文句も言わず真面目にやっている(低賃金で).
【マイケル・A・オズボーンの論文「雇用の未来」(2013)】
技術革新によってアメリカの労働者の半数近くが,[論文の発表当時から]10~20年後には職を失うと予言.しかも工場労働者だけでなく,会計士や金融コンサルタントのような高給取りもそのリストに記されている.
こうして私たちの欲求や感性がやせ細って貧しいものになっていくことを,マルクスは「疎外」と呼んだ.
- へとへとになるまでつまらない仕事をして,帰宅してからは,狭いアパートで,
コンビニの美味くもないご飯をアルコールで流し込みながら,YouTubeや
Twitterを見る生活 - 「月曜日が憂鬱」「日々の生活がしんどい」という感覚
そもそも資本主義の下で生産力が上がるのは,それによって商品を「より安く」生産して,市場で勝ち残るためである.
(低価格競争の波に乗り遅れた資本家は淘汰される.)
そしてあらゆるジャンルの商品を安く買えるようになれば,労働者に支払う日給を減らしても問題がなくなり,資本家は日給の減額分を剰余価値として手にすることができる.
これを「相対剰余価値」と呼ぶ.
(これに対し「絶対剰余価値」とは,労働時間の延長による剰余価値のことであった(第2回).)
さらに生産力を上げる技術革新(イノベーション)により,重労働や複雑な仕事から労働者が解放されるどころか,資本家の労働者に対する「支配」が強化されることになる.
その仕組みは次のようなものである.
生産力を上げるには,生産工程を細分化して,労働者たちに分業させればよい.
- 個々の工程だけなら,素人でも少しトレーニングすればできるようになる.
→ 短時間で労働者を増やせる. - 職人のように口ごたえしない素人集団なら,
資本家は生産工程を容易にコントロールできる. - 作業をマニュアル化してしまえば,スピードアップもできる.
このとき労働の「構想」と「実行」が分断され,「実行」のみを担う労働者は分業システムの中でしか働けなくなる(自分1人では完成品を作れない).
しかも誰にもできる作業なので,自分の代わりになる人はたくさんいる.
仕事を失いたくなければ,不平・不満を飲み込んで黙々と働かざるを得ず,資本家との主従関係がますます強化される.
(なお,こうして安い量産品が効率的に作られるようになると,職人も商売が立ち行かなくなるため,廃業するか,資本家の下での分業に加わらざるを得なくなる.)
構想と実行の分離を貫徹した実例として,“科学的管理法の父”とも称される20世紀初頭の,アメリカの技術者テイラーによるマネジメント手法(テイラー主義)が挙げられる.
労働者がサボらず,文句も言わずに,指示通りに働いてくれるようにするための「働かせ方改革」の完成形が機械化された「大工業」である.
- 大工業の生産現場では,人間が機械に使われる.
- 機械によって作業がラクになると,労働者は無内容な労働を強いられることになる.
- マルクスが目指したのは構想と実行の分離を乗り越えて,労働における自律性を取り戻すことであり,ロボットやAIで「労働」そのものをなくそうという発想は問題の所在を取り違えている.
生産力の向上は “相対的に過剰”な労働者を生みもする.
- 生産力が上がれば必要な労働者数が減るため,リストラに繋がる.
- 機械が力仕事をしてくれれば,女性や子供も働けるようになる.
農業の近代化は農村から多くの若者を都市へと向かわせる. - 工場の外に「もっと安い賃金で,より過酷な労働条件でも働きます」という人が
増えれば,彼らに職を奪われないよう,工場の中の労働者は必死になって働く.
すると生産力が上がって,ますますリストラが進む.
「構想」と「実行」の分離を踏まえると,
- 「経営者目線で」考えて,自ら動くこと
- スマートフォンを使って,好きな時間に「自由に」働くこと
(例:ウーバーイーツのアルバイト)
も結局,与えられた「構想」に従って「実行」だけをさせられているだけであることに気付く.
社会的にさほど重要とは思われない仕事,やっている本人でさえ意味がないと感じている高給取りの仕事──ブルシット・ジョブ (クソどうでもいい仕事) ──が,広告業やコンサルタント業を中心に,近年急速に増えているとグレーバーは指摘する.
それは生産力が高くなりすぎて,無益な労働でも作り出さないと週40時間労働を維持できない状態になってきていることの裏返しだろう.
その一方でコンビニ店員,介護や看護といった「人間にしかできない」仕事,しかも社会的に重要な仕事に従事するエッセンシャル・ワーカーたちに長時間労働と低賃金という負荷がかけられている.
要するに,この社会では,大部分の人々が労働から疎外されているのである.
冷蔵庫やスマホは新商品が出ても,もはやそれほど代わり映えしなくなってきており,余計な機能ばかり増えている.
このように資本主義の商品開発のペースに合わせて,無理やり知恵を絞り出す行為を繰り返していても,小手先の変化ばかりになってしまう.
そして,それを正当化し,あたかも大発明かのように宣伝するために,大量のブルシット・ジョブが量産される.
真のイノベーションのためには,労働者たちが絶えざる競争から距離を置くことが必要である.
よく,みなが平等な社会主義ではイノベーションが停滞すると言われるが,マルクスによれば,その逆の可能性も十分ある.
最後に構想と実行の分離を乗り越え,労働の自律性を取り戻した事例として,日本の給食における取り組みを紹介しておこう.
効率を優先した給食センターの設置は各校の給食室から「構想」を奪い,料理をするという「実行」も剥奪して,運ばれた給食を配るという単純作業に閉じ込めた.
その結果,味や安全という「使用価値」も劣化していった.
このようなセンター化の流れに抵抗し,「自校方式」で子どもたちの食と,食を通じた自治を守ってきた事例もある.
[本ノートの筆者が通っていた小学校は「自校方式」を採用していた.]
第4回 〈コモン〉の再生──晩期マルクスのエコロジーとコミュニズム
資本は,人間だけでなく,自然からも豊かさを一方的に吸い尽くし,その結果,人間と自然の物質代謝に取り返しのつかない亀裂を生み出す,とマルクスは『資本論』で繰り返し警告している.
(マルクスは環境問題にまったく注意を払わなかったとしばしば批判されるが,それは誤解である.)
(資本主義の下で行われる)自然からの掠奪を放置している現役世代は,そのツケを将来世代に払わせ,また,先進国の放埓な生活はその代償を途上国や新興国に押し付けている.
これを「外部化」という.
しかし地球が有限である以上,「外部」も有限であり,グローバル化する環境危機と無関係でいられる場所は,地球上にはもはや残っていない.
日本でも気候危機の影響は,スーパー台風や酷暑として確実に現れてきている.
これが「人新世」である(「はじめに」参照).
人間と自然の物質代謝に「修復不可能な亀裂」が生じる前に,資本主義は別の社会システムに移行しなければならない.
資本主義に代わる新たな社会において大切なのは,「アソシエート」した労働者が,人間と自然との物質代謝を合理的に,持続可能な形で制御することだ,とマルクスは述べている.
アソシエートするとは,共通の目的のために自発的に結びつき,共同するという意味である.
では「どうやって」それを具現化すれば良いのだろうか.
そのヒントはマルクスが晩年に遺した,エンゲルスの編集した『資本論』には収められていない,膨大な草稿や研究ノートに見出される.
エコロジー研究と原古的な共同体研究を行っていた晩年のマルクスは,やがて自然の「持続可能性」と人間社会における「平等」の連関に気付いていく.
マルクスが注目していた原古共同体では,「富」が一部の人に偏ったり,奪い合いになったりしないよう,生産規模や,個人所有できる財産に強い規制をかけて,いわゆる「定常型経済」を実現していた.
このため飛躍的な生産力の増大もなく,ゆえに自然に必要以上の負荷をかけることもなかった.
そしてマルクスは労働者が資本の独占を否定し,解体して,生産手段と地球を「コモンとして」(共有財産として)取り戻す将来社会を思い描いていた.
(1人ひとりの「個人的所有」までも否定しているわけではない.リンゴ畑やリンゴの栽培に必要な道具・知識は共有財産としても,収穫して分配されたリンゴはそれぞれの個人的所有となる.)
言い換えれば,彼が構想していた将来社会は,社会の「富」が「商品」として現れないように,みんなでシェアして,自治管理していく,平等で持続可能な定常型経済社会[したがって「脱成長」型経済]であり,コモンに基づいた社会であるため,コミュニズムと呼べる.
コミュニズムは分かち合いや助け合いの相互扶助によって,富の持つ豊かさをシェアしていく,対価を求めない「贈与」の世界と言える.
(友人の引越しの手伝いなど,そのような原理は資本主義社会の下でも働いている.)
スローガン的に言えば,「人はそれぞれ能力に応じて貢献し,必要に応じて取る」となる.
【注意】
ここまで読めば,マルクスの理想とするコミュニズムが社会の「富」をすべて国有化し,生産手段を国営化していったソ連のようなコミュニズムではないことが分かる.
マルクスが目指していたのは,ソ連や中国のような社会主義を標榜する独裁国家ではない.
冷戦時代にあった「資本主義か,社会主義か」という議論は,「私有か,国有か」の二者択一的なロジックで語られてきたが,マルクスが求めていたのは,そのどちらでもないのである.
実際,マルクス自身は「社会主義」や「共産主義」といった表現はほとんど用いておらず,代わりに「アソシエーション」(上記)という言葉を繰り返し使っていた.
[p.64欄外にも「アソシエーション」の説明がある.]
ここで資本主義が,これまで以上にその暴力性をむき出しにしている例を挙げる.
- 維新の会による「大阪都構想」
- 沿岸部をリゾート開発してカジノを誘致し,万博を開催することを改革の目玉とする.その恩恵を受けるのはゼネコンや国際的なカジノ業者やホテル業者で,地元の人にはほとんど意味がない(市民の関心と資本の関心の乖離).
- 「さらなる民間参入を促進するため」の「種子法」の廃止
- 従来は種子法の下で共有財産として提供されていた種を使い,農家は自家採種しながら,地域や土壌にあった作物を栽培したり,品種改良したりしていた.
これに対しコモンの領域を広げようとする動きも広がりつつある.
- 「民営化」[第1回]に抗する「市民営化」(著者の造語)
- 市民が出資して電気を地産地消する「市民電力」の取り組み
- 働く人が共同出資し,
共同で事業を運営する「ワーカーズコープ」(労働者協同組合) - インターネットアプリを介してスキルやモノをシェアする
「シェアリング・エコノミー」
- 「ミュニシパリズム」(地域自治主義)の国際的ネットワーク
- アムステルダムは脱成長型の街作りに舵を切った
「資本主義は,そろそろ限界かもしれない」と感じている人は,若い世代を中心に確実に増えている.
私たちに今できることは,コモンの領域を広げていこうとする事例に学びながら,知を持ち寄って,偏見なしにあらゆる可能性を考える,ということだろう.
付録
ここではやや断片的ではあるが,本稿の筆者によるノートとして,本編の補足事項を書き留めておく.
資本主義は終わるものか,終わらせるものか
一般に「……べきだ」という形に帰着できる,規範を表す命題(当為命題)は独断論であることを免れない.
したがって資本主義を終わらせる「べきだ」とまでは言えない.
しかしながら「資本主義が終わってほしい」と言えば,嘘にはならない.
逆に事実命題だけからは当為命題を導けない以上(Humeの“法則”),現代社会が市場原理・競争原理で動いているというだけの理由で,あるいはそれが社会を発展させるのに合理的であるとしても(その前提が既に疑わしいが),「競争するべきだ」と主張することはできない.
それは与えられた現状をあるべき姿として無批判に受容しているにすぎない.
(以上,冒頭の「Spinoza描像」における「当為命題の虚構性」を参照.)
今のところ私一人で資本主義に抵抗すれば,資本主義の内部では敗者とならざるを得ない(焼け石に水).
とは言え,たとえ資本主義の内部で負け組になろうとも,資本主義そのものに全面降伏したくはない.
そして私が生きているうちには不可能でも,あと1世紀程度の時間をかけて資本主義は自ずと滅んでいくのだろう.
「資本主義の終わり」というのは理想であると同時に,半分は客観的な(粗い)未来予想でもある.
貨幣による使用価値の締め出しと遊び
お金は普遍的な手段であるがゆえに,お金を稼ぐことが目的となり,このとき個々の対象の具体的な使用価値や,労働をはじめとする具体的な行為から,それ自体が持つ固有の価値を締め出してしまう.
(大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』pp.173—179)
「科学的探究が何の役に立つのか」というありがちな疑問は,お金に換算しないと具体的なものの価値が見えないことの裏返しと見ることもできる.
学問はそれ自体が喜びをもたらす自己充足的な遊びであり,本来何かの役に立てるためのものではない(技術や実践への応用はあくまで副産物である).
そして遊びこそはおそらく勉強の本質であり,また資本主義の論理から自由であり得るものなのだ.
収入の高さ≠社会的貢献度
富と商品の対立,使用価値と(交換)価値の対立という観点から,第1回ではお金を稼ぐことだけが労働ではないことを述べた.
また第3回では高給取りの仕事にブルシット・ジョブが蔓延し,エッセンシャル・ワーカーたちに長時間労働と低賃金という負荷がかけられている問題に触れた.
これらの点に関連して,サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』では,経済的成功・報酬が人びとの美徳や道徳的功績の真価を反映しているという,市場主導型の社会に纏わる通念が批判され,労働の承認と評価を取り戻すことの重要性が強調されている.
暇と退屈の倫理学
第2回では資本主義の下で長時間労働がなくならない問題を見た.
暇を持て余すことが社会的ステータスであった時代と違い,現代では忙しさが美徳とされ,暇人は軽蔑される傾向にある.
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』はこのような暇(あるいは忙しさ)を哲学の問題として取り上げた論考であり,特にハイデッガーの退屈論に即した議論が興味を惹く.
すなわち(自ら進んで)仕事・ミッションの奴隷となっている者は「退屈の第一形式」を経験しており,そこには時間を失いたくないという強迫観念に駆られた「狂気」がある.
もちろんそれは人の勝手であり,それを強制的に中断させることはできない.
しかしながら同様に,人に忙しさを強要することにも何ら正当性はない(冒頭の「Spinoza描像」における「当為命題の虚構性」を参照).
身も蓋もないことを言えば,退屈と気晴らしとが絡み合った穏やかな生(「退屈の第二形式」)こそが人間の本来的な生のあり方であり,その健全性は改めて強調されてよい.
仕事は充実していなければならない?
仕事が充実しているに越したことはない.
ただし自分の仕事が充実していないとしても(いわゆるブルシット・ジョブのように),それは本人の落ち度ではない(就職は自由な選択とは言えない).
また「仕事こそが生き甲斐であるべきだ」「仕事は全力で取り組まなければならない」とまでは言えない.
これらはちょうど「Spinoza描像」(冒頭参照)における「自由意志の否定」と「当為命題の虚構性」に対応している.
経済学者ガルブレイスは「仕事こそが生き甲斐だと感じている人」を「新しい階級」と名付け,「新しい階級」の拡大に「希望」を見出している.
國分はこれに対して,次のように疑問を投げかけている.
長くなるが引用しよう.
仕事が充実することはたしかに素晴らしいかもしれない.
だが,仕事が充実することと,「仕事が充実するべきだ」と主張することは別の事柄である.
このように述べるのはなぜかと言えば,ガルブレイスの提案には大変残酷な側面があるからだ.
しかも彼自身はその残酷さを残酷さとして理解できていないようなのだ.
「仕事が充実するべきだ」という主張は,仕事においてこそ人は充実していなければならないという強迫観念を生む.
人は「新しい階級」に入ろうとして,あるいはそこからこぼれ落ちまいとして,過酷な競争を強いられよう.
ガルブレイスは「ガレージの職工になった医者の息子」を,「新しい階級」からこぼれ落ちた人間の引き合いに出し,彼は「社会からぞっとするほどのあわれみの目でみられる」と述べている.
國分はこれを次のように批判する.
「新しい階級」からこぼれ落ちる人間などたくさんいるに決まっている.
そしてまた,仮に「ガレージの職工になった医者の息子」がそういうこぼれ落ちた人間なのだとしても,彼はいかなる劣等感も感じる必要などない.
当たり前だ.
にもかかわらず,彼は周囲の「哀れみの目」によって劣等感の方へと追い詰められていくのだ.
まったく恐ろしい事態である.
そのような劣等感を生み出すプレッシャーを作り上げ,また増長しているのは,「「新しい階級」が拡大していくべきだ」とするガルブレイスのような経済学者の主張に他ならない.
あきれたことにガルブレイス本人も次のように述べている.
「この階級〔新しい階級〕の一員が給料以外には報酬のない通常の労働者に没落した場合の悲しみに比べれば,封建的な特権を失った貴族の悲しみも物の数ではないであろう」.
その通りだ.
そしてガルブレイスよ,よく聞け.
君こそがこの「悲しみ」を作り上げているのだ.
(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』pp.128—131)
自由で主体的な人間像の誤謬と罠
非自発的同意
第2回では労働者が「自分で選んで,自発的に働いているのだ」と錯覚していることを見た.
なるほど仕事を選ぶということは,確かに形式的には同意の上での「選択」である.
ただしそこには当然ながら「給料が欲しいので仕方なく,自分にできそうな仕事に就く」といった非自発的同意も含まれる.
このため労働者は,形式的には自由な契約のもとで雇用されているが,そうした契約も実質的には強いられたものだとする論が成り立ちうる.
しかし,いざという時に本人に責任を問うために,「同意したのだからそれは自由な選択だったのだ」と見なされるのである──そしてこの論法が疑われることはめったにない.
(自由だから責任が生じるというよりもむしろ,そのような因果論的な発想で責任概念を定立する結果,論理的に自由という虚構が要請されると言った方が正確である.)
そもそも形而上学的なレベルに遡って考えれば,「自由な選択」など最初からあり得ない(冒頭の「Spinoza描像」における「自由意志の否定」を参照).
國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』p.26, p.132, pp.156—160.
大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』pp.162—163.
小坂井敏晶『責任という虚構』p.157.
資本主義の現れとしての自由意志信仰
このように資本主義の与える自由は欺瞞である.
それにも関わらず労働者は「自分で選んで,自発的に働いているのだ」という自負を持ち,その責任感や向上心,主体性といったものが資本の論理に「包摂」され,自ら進んで資本家にとって都合のよい労働者へと仕立て上げられていく(「魂の包摂」(第2回)).
また「経営者目線で」考えて,自ら動くことも結局,与えられた「構想」を内面化し「実行」だけをさせられているだけであり,自由ではない(第3回).
ビジネス論や人材コンサルティングで平然と口にされる「人材の意識や行動の変革をうながす」「社員の自発的なアクションを導く」といった言い方や,「成長マインドセット」「リーダーシップ開発」「自己改革」なども「経営者目線」と同列である.
このような表現は単語レベルで見ても抵抗を感じる.
それは人を都合のよいように「改良」することのできる道具・材料(まさしく「人材」)と見なして,利益を上げるために徹底的に「使う」べきだという(資本主義的)イデオロギーを,これらの用語が露骨に反映しているからだろう.
(「使えない奴だ」という悪態もまた,このようなイデオロギーに由来していると言えるかもしれない.「使うな」と言い返したいところだ.)
注意しなければならないのは,このような理念が個人の自発性を蔑ろにするどころか,先に述べたようにむしろ労働者に自由な主体たることを要請し,社員を自発的に動くように仕向けているということだ.
と言うのも,國分が論じているように,人を「使い」「動かす」には相手がある程度自由であり,ある意味で「能動的」でなければならない.
例えば相手に便所掃除をさせるとき,相手の自由を完全に奪ってしまっては「相手の手にブラシをもたせ,その手をつかんで動かす」他なくなり,「事実上,自分が便所掃除をするはめに陥ってしまう」(國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』p.148).
とりわけ価値の増殖を際限なく求める資本主義の圧力下・競争下では,個々の労働者に過度な負担や無理難題が課される傾向が容易に想像できる.
そこで不可能を可能にする虚構的・超自然的な精神の作用,すなわち自由意志の存在が求められる.
このように自由意志の概念は,価値増殖のために「人材」を徹底的に「使い」「動かす」という資本主義的イデオロギーの共犯者となり得るのである.
自由意志の概念が(自覚されることなく)現代社会を伏流し,幅を利かせているのはこのためであると考えられる.
(以上,冒頭の「Spinoza描像」における「自由意志の否定」を参照.)
真の自由とは自らを貫く必然性に従って行動することであり,逆にありもしない自由意志を求めざるを得ない状況は不自由と言える.
半ば印象論的に言えば,あらゆることが個人の能力で説明される「人間中心的な見方」や,実体のない「〇〇力」という言葉の氾濫も,これと関連した,現代を特徴付ける現象である.
自由意志が存在しない以上,能力の有無は本人のコントロールの及ばないことであるにも関わらず,能力主義と自己責任論は資本主義の下での競争と格差を正当化してきた.
サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』まとめ | 神即自然の必然性 (everything-arises-from-the-principle-of-physics.com)