本稿は荒谷大輔『贈与経済2.0──お金を稼がなくても生きていける世界で暮らす』のまとめノートです.
(荒谷大輔,2024,贈与経済2.0──お金を稼がなくても生きていける世界で暮らす,翔泳社.)
はじめに
この本は「お金」を稼いで生きる資本主義経済とは別なかたちで,人々が贈与し合いながら生きていく新しい経済の提案をします.
しかし,「贈与」と聞いても偽善や煩わしさの方を感じる向きもあるでしょう.
他方で,各人が自分のことをすべて引き受けるのは大変なことであり,そうすると現状,頼れるものは「お金」だけであることになります.
そこで本書では,いざという時に頼れる人を「家族」という枠組みに限定せず,もっと広く確保する一方で,人間関係の束縛からは「自由」でいられるような「お互いさま」のあり方を実現する方法を提案します.
あらかじめ結論を簡単に述べると,それは贈与という出来事を,社会全体で自由に意味づけ可能なものとして記録することで,負債感のない自由な関係を生み出す仕組みとなります.
贈与を贈与者と受贈者のあいだの二者関係に閉じず,常に新しい意味づけに開かれたものとすることで,束縛を生まない新しい「贈与経済」の可能性を示したいと思います.
近代化以前,人々が互いに贈与しあう中で「経済」が回る社会が,世界各地にありました.
それは,人々を関係の中に束縛する側面を強くもっていました.
しかし,本書ではそのような不自由のない新しい贈与経済のあり方を示します.
それは,いわば「贈与経済2.0」というべきもので,現代の「お金」を媒介にした資本主義経済を補完する機能を果たすと期待されます.
本書の見通し
まず第1章と第2章では話の前提として,『資本主義に出口はあるか』(講談社現代新書,2019)に書いた内容を改めてまとめる形で,簡潔に近代社会の歴史的構造を確認します.
第1章では,ロックの思想を引き継いで展開されたアダム・スミスの「道徳哲学」が,現代の私たちにとって非常に馴染み深い資本主義経済の「道徳」の機能の原型になっていることを確認しつつ,「自由」や「平等」といった近代社会において基本的な概念がスミスの「思想」をもとに実現していることを見ます.
第2章では,近現代の歴史の中で資本主義経済を乗り越えようとする様々なオルタナティブ運動がなぜ「失敗」を繰り返してきたか,その根本的な原因を明らかにします.
みなで同じ理念を共有できる理想的な「新しい社会」を作ろうとする試みが,結果として繰り返し全体主義へと陥ってきた悪夢の歴史をルソーの社会契約論にまで遡りながら確認したいと思います.
資本主義経済を乗り越えようとするオルタナティブ運動を支えてきたルソーの思想は,「戦後民主主義」のシステムの中に統合されます.
その内実を明らかにしながら,私たちがこれまで享受してきた「戦後民主主義」を支える構造がすでに崩壊していること,そして資本主義経済の「発展」が限界に達していることを確認します.
第3章では,行き詰った現代の社会の未来を切り開くために,これまでもしばしば提案されてきた贈与経済が,そのままでは大きな問題をもつことを確認します.
従来の贈与論の基礎になっている「負債感」の概念を見直すことで,贈与が束縛として機能する原因を特定し,それを回避する道筋を理論的に示します.
第4章では,第3章で明らかになった理論的な可能性を,ブロックチェーン技術を用いて社会実装する方法が示されます.
贈与経済2.0の仕組みを詳しく説明すると同時に,それがどうやって従来の贈与経済の問題を回避するのかを明らかにしたいと思います.
贈与経済2.0は「いまの社会システムを変えよう」といった同じ理念の共有を求めるものではなく,あくまで資本主義経済と並行しながら,お金を稼がなければ生きていけないという現行の社会に別な選択肢を与える試みです.
こうした贈与経済2.0を社会実装するためのプロジェクトは,多くの人々の協力(まさしく「贈与」)によってすでに動き出しており,そのプロジェクトの進行状況,社会実装に至るまでのロードマップを第5章で確認したいと思います.
2023年4月からはトヨタ財団からの助成金を得て,2024年4月から東京・高円寺と石川・白峰,2地域での贈与経済2.0の実証実験を行うことになりました.
そうした取り組みを通じて,贈与経済を「グローバル化」する具体的な道筋が描かれます.
第6章では,贈与経済がグローバル化する中で人々が求めるであろう「社会」のあり方を描きます.
今日議論されている熟議民主主義の試みの「失敗」を参照しながら,異なる価値観をもつ人々がともに未来を切り開いていく方法が示されることになります.
目次
第1章 なぜお金を稼がないと生きていけないのか──資本主義経済の構造を探る
第2章 理想の社会を作ろうとする試みはなぜ失敗し続けるのか──もうひとつの「近代社会」と戦後秩序
第3章 贈与経済はなぜそのままでオルタナティブになりえないのか──贈与経済論の再構築
第4章 これからの社会はどうあるべきか──他者との自由な関係に基づく「贈与経済2.0」
第5章 いま,何をすればいいのか──「贈与経済2.0」の作り方
第6章 未来の社会はどのようになるのか──「近代社会」を超えて
第1章 なぜお金を稼がないと生きていけないのか──資本主義経済の構造を探る
お金を稼がないと生きていけない?
現代の私たちは「お金を稼がないと生きていけない」ことを当たり前と見なしていますが,実は人間が生きていく上でお金を稼ぐ以外の方法が存在しなくなったのは,以下で見るように,近代に入ってからに過ぎないと言えます.
本書では「経済」という言葉を,「他人の労働の成果を獲得するためのルールを社会全体で共有し,それに則って富を公正に分配する仕組み」を意味するものとして使いたいと思います.
この定義によれば,現代の「資本主義経済」だけが経済ではありません.
名誉革命とロックの社会契約論
現代の私たちが生きている社会の原型は,ジョン・ロックの思想にまで遡ることができます.
ロックは,私的所有権を人間の本性に根差した自然の権利と考え,それを守るために契約によって「社会」を作る社会契約論を唱えました.
ロックの社会契約論には異論の余地がありますが,それは自分たちの財を保護するものとして,当時の富裕層から強い支持を得ました.
こうしてロックが提示する「新しい社会」の考え方は,まずは18世紀のイギリスにおいて社会に浸透していったのです.
そうした「新しい社会」についての考え方の浸透に決定的な役割を果たしたのが,アダム・スミスとその学派の人々による資本主義経済の「開発」でした.
アダム・スミスの「道徳論」/個人の利益追求によって社会的な善悪が決まる
スミスが提示した「思想」とは,道徳に関するものでした.
「市民」の台頭によって神学的な権威が弱まる中で,「新しい社会」を考えるにあたり,社会的な「よい/悪い」の判断基準となる「道徳」を規定し直す必要が出てきたのです.
そこでスミスは「多くの人々が共感できること」を「よい/悪い」の判断基準に位置づけました.
他人に共感できるということはそれ自体で快楽であり,この快楽を求めて個々人がすすんで多くの人々と共感できる行為を選びさえすれば,社会的な善悪が自ずとボトムアップに生み出されることになります.
このスミスの道徳論には,外部の権威あるいは一部のエリートが「よい/悪い」の基準を決める必要はないというメリットがあります.
「自然の欺瞞」:騙されたっていいじゃないか
しかし多くの共感を得ることを道徳的な正しさの唯一の基準とするスミスの道徳論は,「流行」に流されて,長期的には「間違っていた」判断を下してしまう危険性を孕んでいます.
この問題についてスミスは,しかしながら,人間が限られた視野で誤りを繰り返すのは仕方ない以上,「それでいいのだ」というスタンスを採り,人々がそうやって自らの欲望に従って過ちを繰り返すことで,最終的には「神の見えざる手」によってよい方向に導かれると考えました.
(今日の私たちの経済システムがそうした宗教的希望の上に構築されていることは,強調しておきたいところです.)
スミス自身が例として挙げているように,厳しい競争を勝ち抜き,他人の機嫌を取って資本主義社会で成功したとしても,最後には手にした富と地位が,自分の犠牲にしてきた本当の平静に比べれば取るに足りないものだったと悟ることになるのかもしれません.
しかし人々がこのように「神の見えざる手」に欺かれることを,人類の発展を推し進めてきた原動力として,スミスは歓迎しているのです.
「経済学」への応用
こうやって見てくるとスミスの経済学が道徳論の展開の上に成り立っていることがはっきりと見えてきます.
結論から述べると,個々人の欲望の総和として導き出されるボトムアップの「道徳的正しさ」は,経済学において市場原理と呼ばれるものに結実していくことになります.
以下ではこれについて,順を追って説明していきます.
分業
それまでひとりの職人がやっていた仕事の工程を分割し,それぞれの工程に別の人間を割り与えるだけで,生産性が飛躍的に向上するとスミスは提唱しました.
このような分業制の導入によって生産効率が向上する主な理由は,職人が全工程を見渡し新たな工夫の可能性に思いを巡らすといった,「無駄」なスキマ時間を排除できることでしょう.
【note】
テイラー主義の下で労働の「構想」が資本の側に握られ,労働者は単純作業の「実行」だけを担わされ,自ら「構想」する力を奪われていきます(斎藤幸平『ゼロからの「資本論」』第3章).
社会分業制
さらにスミスは,この分業制を社会全体に広げることをも考えていました.
生活に必要とされる他の作業を差し置いてでも,人々が特化したスキルを磨き専門性を高め,「社会全体の正義」といった「無駄」なことは考えず,自分の欲望だけに突き動かされ,目の前の自分の仕事に注力すること,こうした社会分業を徹底することで,社会全体の生産力を飛躍的に高められるというのがスミスの主張だったのです.
「お金」を媒介にした交換の全面化
しかし,こうした社会分業制が成立するためには,「お金さえ稼げば生活に必要な物資は賄える」という信頼が社会全体に浸透している必要があります.
実際それは現代の私たちにとっては当たり前のことのようですが,スミスの時代にはお金を稼いでも必要なときに必要なものと交換できる社会的基盤は充分に成立しておらず,したがっていつ役に立つかわからない「お金」を稼ぐためだけに全生活のリソースを割り振ることはあまりにリスキーだと言えます.
道徳としての市場原理
また人々が安心してお金だけを稼げるためには,したがって安心して市場でお金を使うことができるためには,市場の中で安定した交換のレートが定まっている必要があります.
そのために必要とされるのが「市場原理」に対する信頼です.
市場原理とは個々人がそれぞれ限定された視野で自分の欲望に従って他者との物のやり取りをする中で,「公正」な価格が決定される機構であり,個々人の欲望の総合が「見えざる手」に導かれて「正しさ」を内在的に立ち上げる仕組みと言えます.
ここに市場原理がスミスの道徳論の延長線上に位置づけられるシステムであることが見て取れます.
資本主義経済における「自由」
さて,近代社会において私たちが獲得した「自由」とは,人間関係に依拠せずとも,お金を稼ぎさえすれば他者の労働の成果物を獲得できるという,資本主義経済の下での「自由」にほかなりません.
ところがお金を稼ぐためには,私たちは資本主義経済の示す規範を内面化し,その「道徳」に従うことを要求されます.
【note】
現代の労働者は,生産手段や共同体の相互扶助の関係から切り離され(フリーになり),また自らを自由な主体と思い込んでいるという「2重の意味で自由」であり,実のところ職業選択を終えて入社してしまえば,あとはほとんど奴隷と変わりありません(斎藤幸平『ゼロからの「資本論」』第2章).私たちが直面しているのは,メニューにのっている選択肢から選ぶといった程度の,レベルの低い「自由」しか残されていないという問題です(斎藤幸平,松本卓也ほか『コモンの「自治」論』p.239).このように資本主義の与える自由は欺瞞と言えます.
奴隷解放と「平等」の実現
「自由」だけでなく,近代社会を特徴付ける「平等」もまた,実は経済との関連で理解できます.
例えばスミスは,人間は「平等」であるべきだとして,奴隷解放を唱えました.
しかしそれは,購入や生命維持のコストがかかる奴隷を使い続けるよりも,替えの効く労働者に低賃金で単純労働させた方が「お得」であるという,経済原理に動機付けられていました.
しかも「お金を稼がなければ生きていけない」労働者は,奴隷よりも能動的に働きます.
また奴隷に他の労働者たちと同様の「自由」を与えることは,みなが同じ条件で競争できなければならないという,スミスによる資本主義経済の「道徳」からの要請でもあります.
ただし資本主義経済から要求される「平等」は,資本家と労働者の間の「平等」ではありえなかったことに注意しましょう.
実際19世紀のイギリスにおいて,労働者が資本家と同様の政治力を持つことは決して許されず,労働者が集会を開き団結して賃金交渉することも「自由競争」を阻害する行為として取り締まりの対象にされました.
資本主義経済の求める「平等」は,あくまで労働者間の競争の条件の同一性を保証するものであり,普通選挙権をはじめとする「労働者の権利」はまったく異なる思想(次章で見るルソーの社会契約論)に基づいています.
自由主義の進展と労働者の貧困化
資本主義経済における「平等」は労働者として競争をするという条件を同じくすることを意味しており,公正な競争の結果として生み出される「格差」は,それ自体「公正」なものであって,各人が自分の責任で引き受けるべきものと見なされます.
そして市場原理の外部から介入して財を均等に再分配することは,かえって「不道徳」であるとさえ見なされかねません.
しかし,この資本主義の「道徳」の徹底は,19世紀イギリスにおいて目も当てられないほどの悲惨な貧困を生み出しました.
1日の労働時間は14時間を超え,児童も働きに出され,スラム街の劣悪なインフラの中で労働者たちは生きるか死ぬかというギリギリの生活を強いられたのです.
労働者たちは「お金を稼がなければ生きていけない」以上,悪条件の仕事であっても引き受けざるを得ず,そこには事実上選択肢がありません.
そうであるならば,労働者たちの惨状を,理論上の「フェアネス」から自己責任と断じることはできません.
いずれにせよ市場原理の「自由」はこの場合,労働者には死なない程度の賃金を与えて,選択の余地なく奴隷以上に過酷な労働を強いることが最も合理的であるという結論へと必然的に導きます.
こうした状況下で,資本主義の経済システム自体に疑問を提示し,社会改革を行おうとする運動が立ち上がります.
これについては,章を改めて見ていきましょう.
【note1】
全ては神即自然の必然性の現れであり自由意志は存在しない以上,資本主義(とりわけ新自由主義)における自己責任論的なイデオロギーは何ら正当性を持たず,哲学的に支持し得ません.(このことはまた,先に述べたように資本主義が与える自由が欺瞞であることの,形而上学的な理由でもあります.)したがってM.サンデルの言うように,「機会の平等」が完全に確保された場合にさえ,能力主義そのものが倫理的に満足のいくものだとは言い切れません(M.サンデル『実力も運の打ち』pp.39–41).
【note2】
本章では専ら資本主義経済の浸透を促した,思想史的な側面に焦点が当てられています.他方で資本主義への移行は,一般には次のように理解されています.すなわち資本主義社会においては,社会の「富」は悉く「商品」に姿を変え,我々はお金を稼いで商品を手に入れなければ,もはや生きていくことはできません.かつては誰もがアクセスできるコモン(共有財産)だった富は,資本家によって私的財産として囲い込まれ,独占されました.そして囲い込みによって農地などを締め出され,生産手段や共同体の相互扶助の関係から切り離された人々は,資本家に労働力を(商品として)提供する「賃労働者」とならざるを得ず,さらに生産された商品の買い手となって資本家に市場をも提供しました.本源的蓄積です.ただしマルクスは本源的蓄積を単に資本主義の前史として描いているのではありません.むしろ本源的蓄積は歴史を通じて繰り返し行われてきた資本主義の本質的な過程であり,資本主義は絶えずその内部に貧しさ(人工的希少性)を生み出すことによってのみ成立してきたシステムと言えます.そうであるならば,民主的連帯を通じて社会の富を脱商品化し,コモンとして自治・管理し,潤沢さを回復させることがポスト資本主義ないしポスト希少性への大きな鍵となるでしょう.(斎藤幸平『ゼロからの「資本論」』第1章,第6章.斎藤幸平『人新世の「資本論」』第6章.)
第2章 理想の社会を作ろうとする試みはなぜ失敗し続けるのか──もうひとつの「近代社会」と戦後秩序
「反資本主義」の共通点
第1章では,資本主義経済の構造を確認しました.
「お金を稼がなければ生きていけない」という仕組みは,アダム・スミスの道徳哲学を基礎にでき上がったものであり,近代化の過程で私たちが獲得した「自由」や「平等」といった基本的な考え方も,資本主義経済の中から成立したものであることが見えてきました.
お金さえもっていれば他者関係に縛られず何でもできるという「自由」は,そのお金を稼ぐために人々が自ら進んで資本主義経済の「道徳」に従うよう促すものでした.
奴隷解放を実現させた「平等」もまた,生きるための競争を強いることにおいて労働者を企業に従属させる機能を果たしました.
これに対し労働者が政治参加する権利は,ルソーの社会契約論を源流とする資本主義経済とは別の運動によって後から勝ち取られたものです.
ルソーは,ロックとはまったく異なる「近代社会」を提案したのであって,2つの「近代化」を区別することは,資本主義経済を乗り越えようとしてきた様々な試みが失敗し続けてきた理由を明らかにする上で重要となります.
もうひとつの「近代社会」
ロックは人間の自然状態に私的所有権を設定したのに対し,ルソーは自然状態において,人間は互いに慈しみ合って平和に生活していたと考えます.
そして私的所有に基づくロックの「近代社会」は人間の自然を破壊したとルソーは嘆き,失われた自然を取り戻すような社会契約をしなければならないといいます.
具体的にはルソーの社会契約では,まず人々が自分の所有するものをすべて放棄した上で,共同体に共有された単一の「一般意志」を自分の意志にするよう求められます.
人々がしっかりと議論をし,みなで同じ一般意志を共有できてはじめて「民主主義」が成立し,最初に投げ出した自分の所有物が(例えば福祉政策によって)持ち主のところに戻されることになります.
これはお金による「個人の自由」を基礎に「神の見えざる手」を通じて,社会全体の「正しさ」をボトムアップに決定する,アダム・スミスの「民主主義」とは対照的です.
ルソーの「近代社会」における「自由」と「平等」
「自由」と「平等」という概念についても,ロックとルソーではその内実がまったく異なります.
ロックに連なる資本主義社会において,「自由」は「お金」を介して生活に必要なものをすべて手に入れられるようになることで,束縛的な人間関係に依存しなくても生きていけることを意味していたのに対し,ルソーのいう「自由」は,共同体の一般意志(したがって自分自身の意志)に従うことにほかならないとされます.
またルソーの社会契約論において「平等」は,社会福祉を通じた富の再分配によって実現されるべきものとされました.
これは自由競争の結果として生み出される格差を是認すべきと考える資本主義経済の「平等」と明確に対立します.
このように両者の考え方は,「正しさ」に関して鋭く対立するものになっていることがわかります.
【note1】
ここで究極的にどちらの理念が正しいのかを争っても,水掛け論に陥るだけであり,ある意味それは初めから答のない擬似問題です.何故ならいかなる当為命題(「……べきだ」という形に帰着できる,規範を表す命題)も事実命題だけからは導けない以上(Humeの“法則”),それらはいかに論理で武装しようとも恣意性を免れないからです.例えば「競争こそが社会を発展させるのだから,弱肉強食を受け入れなければならない」というのは,仮にその前提が正しいとしても,典型的な事実命題から当為命題への飛躍であり,与えられた資本制社会の論理を無批判に受容しているにすぎません.他方で「資本主義が終わってほしい」「全体主義的な独裁体制には後戻りしたくはない」と言う分には,嘘にはなりません.
【note2】
斎藤幸平とマイケル・ハートとの対談で言われているように,ポスト資本主義を構想することは,従来の資本主義と社会主義の2項対立にとらわれず,自由・平等・連帯を一続きに考えるという問題でもあります.(マルクス・ガブリエルほか『資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐』pp.27–28.)
ルソー=反資本主義
フランス革命の後,ルソーの思想に基づいた急進派は「恐怖政治」をとり,その意志を共有できない反対者を次々とギロチン台に送り続けました.
その後,資本主義経済を乗り越える運動として特筆すべき影響を世界に与えたのは,マルクス主義とファシズムでしょう.
マルクス主義とファシズムはともに資本主義を打倒し,共有すべき一般意志を掲げることにおいて共通していましたが,その一般意志の内容を異にしており,互いに鋭い敵対関係にありました.
マルクス主義
マルクスは資本主義経済の構造を精緻に分析し,構造的な問題を浮き彫りにしました.
しかし著者の見立てでは,マルクス率いる共産主義の運動は,結果的に「独裁」を生み出すことになります(それはマルクスの企図を取り違えた人々の暴走によるものだという人々もなおいます).
いずれにせよ労働者階級の独裁は,労働者階級を代表する共産党の独裁となり,やがて共産党内の権力闘争を産み出していきました.
また「プロレタリアート独裁」は,レーニンによる革命の実践の中で共産党の「一党独裁」へと結実し,スターリンによる独裁体制へと繋がっていきました.
これはマルクスが誤ったというよりも,理念を共有して共に社会を変えていこうとするルソー主義的な社会改革の運動が構造的にもつ陥穽(かんせい)だったと考えられます.
同じ意志を共有する国民の強い紐帯を生み出すためには,必然的に「異分子の排除」が行われることになるのです.
【note】
社会主義を標榜するソ連や中国の実態は,生産手段を国有化し,官僚が労働者を搾取する独裁的な「国家資本主義」であり,社会主義の理想からかけ離れています.またベーシックインカム(BI)や現代貨幣理論(MMT)のような,国家の力を介したトップダウン型の資本主義改革は,資本の側の抵抗や物象化を解決できないでしょう.私たちの目指す未来社会は,民主的なボトムアップ型の自発的連帯(アソシエーション)を通じて「脱商品化」を推し進め,貨幣なしで暮らせる社会の領域を広げることであり,これこそがマルクスの構想する「社会主義」ないし「コミュニズム」です.実際,エコロジー研究と原古的な共同体研究を行っていた晩年のマルクスは,やがて自然の「持続可能性」と人間社会における「平等」の連関に気付いていきます.彼が構想していた将来社会は,社会の「富」が「商品」として現れないように,みんなでシェアして,自治管理していく,平等で持続可能な定常型経済社会(したがって「脱成長」型経済)であり,コモンに基づいた社会であるため,コミュニズムと呼べます(斎藤幸平『ゼロからの「資本論」』第5章,第6章).
ファシズム
他方でお金を介した関係に分断された諸個人の間で強いつながりを取り戻そうとした運動がファシズムです.
ファシズムは本来「団結主義」と訳せる言葉であり,当時はポジティブな意味で受け取られていました.
日本におけるファシズムは,格差を生む資本主義経済を乗り越え,人々がみな「天皇の赤子」として平等に生きられる社会をクーデターによって実現しようとしたのです.
ファシズムの台頭により,日本は流動する世界情勢の中で,資本主義国家によって支配されていた植民地を「解放」するための戦争に乗り出すことになります.
ドイツのナチズムもまた「反資本主義」を前面に押し出すものであったことは,党の綱領に明瞭に示されています.
とりわけ「ユダヤ人の排斥」は,資本主義システムの中で不当に利益を得てきた(と見なされる)人々への報復という意味をもっていました.
こうして戦前・戦中期の反資本主義の運動は,同じ日本/ドイツ民族として「団結」することを強要する,全体主義へと雪崩込んでいきました.
第2次世界大戦の対立軸:資本主義vs.反資本主義
このように考えれば,第2次世界大戦の対立軸は,資本主義vs.反資本主義と見ることができます.
ファシズム体制を採る日本・ドイツ・イタリアの「枢軸国」は,資本主義のシステムとして実現した「近代社会」を戦争という直接行動によって乗り越え,世界を「もうひとつの近代社会」で塗り替えようとした,と言えます.
(ただしマルクス主義はファシズムと強い敵対関係にあり,スターリン率いるソビエトは最終的に「連合国」に参加することになりました.)
ここでファシズムを単に「悪」として片付けるのは簡単ですが,当時の人々は熱狂的にファシズムを支持していたこと,みなが一丸となって「新しい社会」の理想を実現しようとした真摯な努力が壊滅的な悲劇を生み出したことは,忘れてはならないでしょう.
私たちが引き出さねばならない教訓は,みなで理念を共有して社会を変えようとする運動がおそらく,ルソーの示した一般意志の共有の問題を避けて通れないということです.
戦後の植民地解放
資本主義を採っていた国々の多くは従来,過剰な生産物を売り捌くマーケットとして,多くの植民地を擁していました.
しかし,第2次世界大戦後西洋諸国は,自発的に植民地解放を進めます.
これには,資本主義に対する批判を避けるためという面もあるでしょう.
しかし同時に,植民地を解放しても宗主国として得てきた利益を放棄せずにすむ方法が,そのときすでに開発されていたということも大きな契機だったと思われます.
この点を理解する鍵となるのが,いわゆる「モンロー主義」です.
モンロー主義とその拡張
「モンロー主義」とは通常,アメリカの孤立外交を示すものと考えられています.
第5代大統領のジェームズ・モンローが,ヨーロッパ諸国によるアメリカへの政治的・軍事的介入を拒否する宣言を行ったことに由来します.
しかし,ここで語られる「アメリカ」が「アメリカ合衆国」ではなく「アメリカ大陸」のことを指しているというのが重要な点です.
そして中南米の国々が合衆国の意志に反して「非行」を行うときには,積極的に介入し「彼らの意志」と呼ばれるもの自体を操作しました.
つまり19世紀における「モンロー主義」は,ヨーロッパに対するアメリカの自律を宣言するものであると同時に,アメリカ大陸の諸国に対するアメリカ合衆国の政治的・経済的支配の確立を意味するものだったのです.
こうしてあからさまに「植民地」という形態を採らなくとも,「自由民主主義」の徹底と管理によって資本主義経済が必要とする要件を満たすことができるということを,アメリカ合衆国はすでに19世紀に証明していたのです.
第2次世界大戦後の国際秩序が「非民主主義的」と見なされる国々(イランなどの民主主義国家も含まれる)に対する「国際警察力」の行使によって支えられている現状は,私たちの知るとおりです.
戦後民主主義とは何だったのか
さらに資本主義を採る国々は,明確に対立するはずのルソーの社会主義を採り入れはじめました.
「すべての人間には生きる権利がある」という考え方はこれまで,資本主義の下で拒否されてきたにも関わらず,生存権を中心とする社会権が認められるようになったのです.
その背景として,ファシズムの根が絶やされた第2次世界大戦後にも,共産主義の勢力による「反資本主義」の動きが残り続けていたことが挙げられるでしょう.
いずれにせよ,私たちがよく知っている戦後民主主義は,こうして資本主義経済の「道徳」とルソー主義的な「正義」が同居するかたちで成立することになりました.
しかし既に確認したように,それらの「近代社会」は鋭く対立するものであり,「自由」や「平等」,「民主主義」の意味は両者でまったく異なります.
「戦後民主主義」として私たちが知っているものは,対立する2つの理念が調停不可能なかたちで同居する極めて特殊な政治形態と考える必要があります.
その矛盾はちょうど,議会政治における「右/左」の対立に反映されています.
ルソーの「近代社会」の実現を目指す政治勢力が左派で,資本主義経済のシステムを重視する勢力が右派です.
根底にある理念が相容れない以上,民主主義の理想に則り両派が生産的な対話をする可能性は,はじめから閉ざされていると考えられます.
高度経済成長とその終焉
確かに,終戦後1970年代ごろまでは資本主義経済とルソー的理想の同居は非常に上手くいっているように見えました.
高度経済成長の中にあっては,フォーディズムに見られるように,労働者の賃上げは労働者を商品の買手に変えて,経済を活性化させることにつながりました.
しかし1970年代以降はこれ以上福祉を重視しても赤字にしかならない経済状況に陥り,ネオリベラリズム[新自由主義]が台頭します.
当初ネオリベラリズムは実は右派ではなく,徐々に「中道」へと寄っていくアメリカの左派の中で語られはじめたものであり,その後,ルソー的な「近代社会」の理想にこだわる左派の勢力は急速に衰えていきました.
二極化する「正義」に分断される世界
それでもなお,社会的に「劣位」におかれていた黒人や女性の地位を改善するための市場原理における競争とは別な尺度で社会的に重要なポジションに立たせるアファーマティブ・アクションや,真に「平等」な社会を実現するために積極的に移民を受け入れる政策を採るなど,「理想的な民主主義」を現実の政策に落とし込む努力は続けられており,それらは否定されるべきではないと考えられます.
ただし,移民の受け入れやアファーマティブ・アクションといった「民主的」な取り組みは,それによって大きな経済的打撃を受けない「エリート層の正義」の押し付けであり「不当」に人々の利益を損ねているという「不満」も蓄積されています.
実際,2016年のアメリカ大統領選に勝利したトランプは,そうした「正義」の圧力に敢然と立ち向かう「ダークヒーロー」のように考えられたのでした.
このように,私たちの社会の背景にある構造的な対立を見ないまま自らの「正義」だけを語るならば,それは現在深まっている社会の分断をより深刻化させることにつながる危険があります.
資本主義システムの構造的な問題
とはいえ,各人が自分の目の前の仕事に注力していれば全体の問題は「神の見えざる手」によって自ずと解決されるはずだという,資本主義の「信仰」が上手くいく保証はどこにもありません.
例えば現在進行形の気候変動問題について言えば,SDGsやカーボンニュートラルといった「流行語」に代表されるような資本主義の新しい「道徳」に導かれれば,技術開発等の競争の中で問題が自ずと解決するはずだという楽観論は根強くあります.
しかし,斎藤幸平氏が論じているように,そうした技術革新への盲目的な信仰は,すでに限界を超えている問題への対処として遅すぎるだけでなく,問題を目の届かない外部に転嫁する傾向をもっています.
また「流行」に左右される仕組みは不可避的に「金融危機」を発生させるという問題もあります.
実際1980年代以降,金融派生商品の開発によって実体経済とは異なるマーケットが作られてから,「流行」によって形成されたバブルがはじけて実体経済に強い打撃を与える金融危機が,おおよそ10年に1回のペースで繰り返し起こっています.
そこで次章以降では,「一般意志の共有」の問題に陥ることのない,資本主義経済とは異なるかたちの「経済」を提案します.
資本主義の他に「やりようがない」ということはないのです.
【note】
「資本主義の終わりを想像するよりも,世界の終わりを想像することの方が容易だ」というフレドリック・ジェイムソンの言葉に端的に表されているように,私たちは資本主義が「歴史の終わり」であり,それよりも優れたシステムはあり得ないと思い込まされています.しかし放っておけば資本主義は自滅しハードランディングを迎えようとしている今日では,資本主義に代わる理想の社会を模索することこそが,かえって理性的な現実主義者としてのあり方となります.(白井聡『武器としての「資本論」』pp.21–22,pp.31–33.大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』pp.13–15.)
第3章 贈与経済はなぜそのままでオルタナティブになりえないのか──贈与経済論の再構築
「経済」はひとつではない
前章では,資本主義経済の問題を解決しようとする試みが失敗する原因を示しました.
「同じ理念」を共有することで社会を変えようとする方法は,対立する「正義」を許容することができず,結果として否応なく排除を生み出すことが示されたのです.
そこで「一般意志の共有」を強いることのない,「資本主義経済」とは異なるかたちでの「経済」によって,資本主義のシステムの問題を解決することを提案したいと思います.
第1章では「経済」という言葉を,「他人の労働の成果を獲得するためのルールを社会全体で共有し,それに則って富を公正に分配する仕組み」を指すものとして約束しました.
このとき資本主義経済とは異なるかたちの「経済」もありえます.
実際マルセス・モールが未開社会を分析する中で明らかにしたように,お金ではなく贈与を媒介として物やサービスが社会全体で分配される「贈与経済」が,歴史的にも長い間,機能していました.
しかし,贈与経済はそのままのかたちでは大きな問題を抱えているといわざるをえません.
そこで本章では贈与経済がもつ本質的な問題点を明らかにした上で,その解決方法を検討したいと思います.
贈与のインセンティブ
実は贈与経済は贈与することにインセンティブが発生する仕組みをもっており,その中でしばしば贈与競争と呼びうるような事態が発生することが知られています.
しかしそもそもなぜ,人々は自分の物を他人にあげたり,他人のために労働するということを喜んでやるのでしょうか.
ひとまずモースによる答を参照しましょう.
この謎を解くには,贈与を受けたとき,なぜ人はそれを「返さないといけない」と思うのか,言い換えれば「返礼の義務」の感覚がどのように基礎付けられているのかを理解する必要があります.
贈与経済が行われている/いたマオリ族の現地の人々の話によれば,誰かにもらった物を他の人に与えて利益を得たとき,その利益を自分の懐に入れてしまえば,物に取り憑いていた霊(ハウ)に殺されてしまうかもしれないといいます.
これはいかにも未開社会的な「迷信」と思われるかもしれませんが,「ハウ」を手元にある物の「もともとの所有者」の権利の名残のようなものと考えれば,マオリ族の考え方では,いま手元に物をもっている人間と所有の権利をもつ人間とが区別されていることがわかります.
これは,一度自分の手に渡ったものは自由に処理して構わないとする,資本主義経済における「私的所有権」とは対照的です.
ところで贈与の連鎖を遡って「もともとの所有者」を特定することは困難である以上,その起源は必然的に神話化されていく傾向をもちます:曰く,ハウは森や聖所に還りたがっているのです.
いずれにせよ贈与された物に付着している「ハウ」は返礼を促しますが,贈与によって生活が維持される社会の中で実際にすべてを返しきることは困難でしょう.
贈与の連鎖は,こうして自分が何かを他者に負っているという感覚を基礎に続けられていくことになります.
負債感の積み重ねがヒエラルキーを作る:カチン族の例
従来の贈与経済論では,このように「負債感」の発生によって贈与の連鎖を説明することが一般的でした.
しかし贈与が直ちに負債感を発生させ「返礼の義務」を課すとなると,人々がその関係から自由になる可能性が絶たれてしまいます.
実に本書の作戦は,贈与が負債感へと結実するひとつ手前の次元を確保することで,従来の贈与経済がもっていた問題を解決する糸口を見出すことにあります.
しかしその前に,贈与経済のもうひとつの例として,ミャンマー北部のカチン族を見てみましょう.
資本主義経済だけでなく,カチン族の社会においても贈与が繰り返される中で自然にヒエラルキーが形成されることが知られています.
ここでもまずは,そのようなヒエラルキー構造を説明する,従来の贈与経済論における議論を確認していきましょう.
まずカチン族においては,ある家から別の家へ女性が奥さんとして「贈与」され(良いか悪いかは別にして),貰った側に「負債感」が生み出されます.
ただし平等な立ち位置にある家の間で任意の女性のやり取りがあったとしても,多少の贈与の多寡は「お互い様」で,そこまで社会的な格差は生じません.
ところがカチン族は,地域の人々を対象とした宴会を開くこともあります.
例えばある年,A家のところだけ豊作だったとすると,たまたまの天の恵みを自分の手元に溜め込む正当性を示すことは困難なので,A家は宴会を開いて他の家の人々にタダで飲み食いしてもらいます.
するとその地域におけるA家の威信は高まり,A家からもらう女性も「別格」と見なされるようになります.
このときA家はより少ない女性の提供で相対的に多くの女性を獲得できるようになり,したがってより多くの子供を産んで働き手や耕作地を増やし,再び大規模な宴会(収穫祭)を開くことができるという正のフィードバックの循環が生じます.
こうしてA家の社会的地位はますます上昇していきます.
【note:コイン交換モデル】
関連して,実は大人数の間でランダムにコインの受け渡しを繰り返すだけでも,各人が持つコインの枚数分布は最終的に,一部の人だけが多くのコインを持ち,大多数の人はコインをほとんど持たないような指数分布に落ち着くことが知られています.この意味で「機会の平等は結果の平等を意味しない」と言えます.
「宗教的な次元」の発生
そうやって力を得た家はやがて「宗教的な祭祀」を取り仕切るようになります.
単純にいって,その家が繰り返し「天の恵み」を得られるのは「神」に近い存在だからだと考えられるようになるわけです.
ここで宗教的な次元が出てくることは,ある意味で社会的な必然です.
合理的なやり方では答えを出せない問題について「正しさ」を確定するために,みなが納得して共有できる物語として超越的次元を立ち上げることは非常に理にかなった行為と考えることができるのです.
返せない負債,身分の固定化
さて,そうして贈与の中でヒエラルキー化が加速していくと,末端に位置づけられる人々が抱える負債もまた加速度的に増えていくのは必然的な流れです.
発生する「負債」が返済不可能なものになると,その負債は子どもへと引き継がれ,やがて生まれながらにして隷属を余儀なくされる人々が生まれてくることになるでしょう.
しかもここでは祭祀を司る家に奉公し恩に報いることは,暴力によって強制されているわけではなく,社会的に「正しい」こととして受け容れられているため,各人はその地位を甘んじて引き受ける以外の選択肢をもちません.
「贈与経済からの解放」としての資本主義経済
このように考えれば,贈与経済が少なくともそのままのかたちでは資本主義経済のオルタナティブとして機能しえないことは明らかです.
贈与による「負債感」の発生を構成要素として積み上げられる贈与経済は,ごくごく自然なやり取りの中で隷属を発生させうるものになっているのです.
だからこそ,お金さえ稼げば生きていける資本主義経済は,かえって「個人の自由」を与えるものとして歓迎されたのです.
負債感の手前にある「わからなさ」
ここでようやく,贈与が負債感へと結実する「手前」を確保する意義が明らかになります.
贈与経済が自然発生的に隷属を生み出す仕組みとなったのは,贈与が直ちに負債感を与えると考えられたからでした.
しかし,贈与には社会的な義務で人を縛る「手前」の段階があります.
他者から何かを(して)もらったとき,最初に発生するのは「それが何を意味するのかわからない」という事態であると思われるのです.
これを「ゼロ地点」と呼びましょう.
その「意味」が明らかになり,もらったことで自分が何をしなければならないかが明らかになるのは,あくまでその次の段階です.
負債感を伴った「返礼の義務」は,贈与の「意味」が共同体の中で共有されることで初めて発生します.
マオリ族の人々が「もともとの所有者」を森や先祖に割り当てたように,あるいはカチン族が宴会の「意味」をA家の社会的優位として引き受けたように,贈与に意味を与えるには,人々に同じ物語(神話)が共有される必要があります.
(他方で資本主義経済においては「私的所有権」の物語が共有されているため,一度自分の手に渡ったものの所有権を後から請求されることがないと安心していられます.)
ここで最初に物語を立ち上げる場面には,人々の主体的なコミットメントがありえたということに注意しましょう.
そうであるならば,そのゼロ地点を確保し,絶えず贈与のゼロ地点に立ち返ることによって,私たち自身が自分のコミットできる人間関係を自由に構築する可能性が見出されることになります.
「シニフィアン」としての贈与
蛇足になりますが,贈与はまず「シニフィアン」として与えられるとラカンはいっています.
シニフィアンは何かを指し示そうとするもののことであり,それによって指し示されているもの(=シニフィエ)はそれだけでは明らかではありません.
私たちが知っているシニフィアンの典型は「言葉」ですが,言葉もまたそれ自体では単なる書かれた文字や発声された音にすぎません.
これは意味が確定する前のゼロ地点における贈与に対応しています.
共同体を作る自由
まとめると,贈与によって発生する「わからなさ」「モヤモヤ」を解消する過程で,同意された物語の中で人々の間に特定の「権利/義務関係」が発生します.
従来の贈与経済は,一度作られた物語が与えられた構造として作用するため,人間関係の束縛の桎梏(しっこく)として現れます.
他方で資本主義により,私たちはまがりなりにも「個人の自由」を獲得しましたが,私たちは「お金」を媒介にした取引をすることによって,関係をその都度チャラにすることを強いられているということもできます.
そこで贈与に伴って新しく構築される関係を,自らのコミットメントによって主体的に引き受けられるようになれば,私たちは「共同体を作る自由」を手にすることができるのです.
これが「贈与経済2.0」の基礎となるアイデアです.
第4章 これからの社会はどうあるべきか──他者との自由な関係に基づく「贈与経済2.0」
「贈与経済2.0」を実装するために必要なこと
「贈与経済2.0」を実現するための条件を見るために,現代の私たちの社会でもありうる具体的な例で考えてみることにしましょう.
例えば苦学生で学費を払うのに手一杯だったBさんに,Aさんが「うちの店で食べなよ」と食事をご馳走したとします.
この段階ではまだ,AさんはBさんに何か返礼を要求しているわけではなく,贈与の社会的な意味は確定していません.
しかし,卒業までの間,頻繁に食事をご馳走になり,「モヤモヤ」が大きくなってくれば,AさんとBさんの間の社会的な関係が問われるようになっていきます.
Aさんの店でふつうにお金を払って食べている常連さんたちの視線もあるでしょう.
そこでBさんは無事大学を卒業し働きはじめるにあたって,大学時代の生活を支えてくれたAさんを,例えば「東京の父」と位置づけることにしたとしましょう.
こうした関係の規定は,ほかの常連さんも納得できるものであれば,共同体の中で共有しうる物語となります.
ところが仕事が忙しくなってきてBさんが店に顔を出せなくなると,Aさんはそれを「忘恩」と捉えるかもしれません.
そしてAさんは「いまのBがあるのは俺のおかげなのに」と,周囲の人々もウンザリするほど繰り返しながら,Bさんが負っているはずの社会的義務が果たされないことを非難するようになります.
Aさんの非難があまりに強くなってくると,Bさんの方も次第に,さすがにあのときの贈与が,そこまでいわれるものかどうかわからなくなっていき,こんなことならAさんの好意を受け入れなければよかったと感じるようになります.
Bさんはそうして「恩返し」と称して幾ばくかのお金を用意し,それでもってAさんとの関係を解消しようとします.
それでもなお,Aさんがほしいのはお金ではなく,「恩知らず」と罵られてさらに関係がこじれる可能性もあるでしょう.
ここには人間関係に関わる贈与の「めんどくさい」ところが顕著に現れています.
しかしもし,このとき社会的関係として意味づけられる手前の出来事としての贈与にまで立ち返り,そこを起点にあらためて関係を構築し直すことができれば,贈与経済のもつポテンシャルを活かしながら束縛的な関係をリセットする契機を作ることができるようにも思われます.
贈与の記録としてのブロックチェーン
これから見るように,それには「意味」がまだ確定していない贈与の記録を誰も変更のできない客観的な媒体に記録することが有効となります.
ここで登場するのがブロックチェーンです.
ブロックチェーンとは,ブロック単位でデータを追加していく「分散型台帳」です.
追加されるデータは「ブロック」と呼ばれる単位で構成されていて,これは追加しかできません.
後から前に記録されたデータを書き換えることはできず,ブロックをつなぎ合わせてチェーンとして記録していくというのがブロックチェーンの大きな特徴となっています.
もうひとつの特徴は「分散型」であるということです.
分散型台帳は,誰でも参加できる複数のノードで同じ情報を共有してデータを共有することで改ざんや不正利用ができないようにするための技術として開発されました.
新しいデータブロックが追加されるとき,どのブロックを追加するのが正しいのかを複数のノードで検証しながらすべてのノードでまったく同じチェーンを共有する方法を採ります.
そうして,不正をしたくてもできない仕様にすることで,(特定の企業のサーバーのような)「何かを信用する」というリスクをもたずに,データの真正性を確保することができます.
ブロックチェーンを介して私たちは世界全体で改ざん不可能なデータを共有することができるのです.
【note】
一般的なブロックチェーンでは,各台帳にその内容と連動した適当な数字を一種のタグとしてつけておき,さらにその数字を次の台帳に書き込んでいくことで,ブロック状に分割された台帳をチェーンのようにつなげます.こうしておくと1冊の台帳を改ざんしたときに,まずその台帳のタグの数字がまったくの別物に変わり,さらにその影響が芋づる式に全部の台帳に及んでいくため,改ざんがばれないようにするためには結局全部の台帳に手を回さねばなりません.しかもブロックチェーン化した台帳は分散されて管理されているため,それらを一斉に改ざんすることは事実上不可能となります(長沼伸一郎『現代経済学の直観的方法』第8章).
「ありがとう」の記録をブロックチェーン上に刻む
ここでBさんがAさんから贈与を受けたときの「ありがとう」の記録として,彼の感謝をブロックチェーン上に刻むことを考えましょう.
具体的にはBさんはAさんに一定量の「トークン(ポイント)」を送ります.
(ただし,ここで用いられるトークンは日本円などの法定通貨に換算できるものではありません.)
トークンを送るとその履歴がブロックチェーン上で2人のアカウントに記録されるため,それを利用して贈与がなされたことをブロックチェーン上に記録することができます.
これは手間としては,記念写真をSNS上にアップするのとほとんど変わりません.
このひと手間が実際どう効いてくることになるのかを見ていきましょう.
「意味」を求める圧力が減退する
まず,出来事としての贈与が社会的な関係として意味づけられる前に記録されるというのが大きな違いです.
出来事としての贈与の記録がなされることで「モヤモヤ」を「モヤモヤ」のまま維持し続ける契機が生まれます.
もちろん出来事としての贈与の記録が残されていたとしても「モヤモヤ」を関係に結実させようとする契機自体は保持されます.
しかし,それが強制される契機は減らすことができます.
贈与の記録は社会関係を生み出す力として機能しますが,当事者が自らの自由においてその関係の引き受けをコントロールできるようになるのです.
先ほどの例では,BさんはAさんとの関係を「親子関係」として性急にひとりで引き受ける圧力から解放され,したがってその分,贈与経済の幅も広がります.
「同じ物語」に縛り付けられない自由
つまり出来事としての贈与をそのままのかたちで記録し,「モヤモヤ」をすぐに解消しないで留めるならば,贈与の「意味」は常に様々なものに開かれ続けることにもなるでしょう.
例えばBさんの話を聞いた誰かがAさんにとって大きな助けとなるようなことをしてくれるかもしれませんし,Aさんのアカウントの履歴を見た人がAさんの店に通いはじめて新しい出会いを作るかもしれません.
ここでは贈与は人々の関係を束縛するものではなく,むしろ関係を生み出す力として機能しており,贈与が同じひとつの物語に縛られる必要はもはやないのです.
ゼロ地点への立ち戻り
最後にブロックチェーン上に贈与を記録することで,一度確立した「意味」を解体し,もう一度贈与がなされた地点に立ち戻って意味づけをし直すことができます.
BさんがAさんとの関係を一度「親子」のメタファーで引き受けたとしても,意味づけられる手前の出来事としての贈与が改ざん不可能なかたちで記録されていれば,その意味だけを覆すことができます.
【note】
ただし本当に一切の主観を排して客観的な出来事だけを記述できるのか,出来事とその意味を明確に区別できるのかという点に関しては,やや疑問が残ります.もっとも実践的にはこの曖昧さはさほど問題にならず,杞憂だったと判明するかもしれません.
ハートランド・プロジェクト
実は「贈与経済2.0」は理論的な可能性に留まらず,それを社会実装するプロジェクトがすでにはじまっています.
まさに話を聞いて集まってくださった方々の「贈与」によって準備が進められ,トヨタ財団からの助成も得て2024年4月から実証実験をはじめることになりました.
プロジェクトは「ハートランド」と名付けられ,ブロックチェーン上に記録するためのトークンには「ハート(HRT)」という名前が付けられました.
以下ではプロジェクトの具体的な設計を見ていきたいと思います.
「贈与経済2.0」のインセンティブ
贈与経済2.0において人々に贈与を促すインセンティブは,他者との関係を生み出すことに見出されます.
新しい「経済」においては,関係の数と強さが贈与を受ける機会を増やすものになっているため,関係を生むことが端的なメリットになります.
AさんがBさんの苦境を見て自分の店で食べることを提案するという場合,Aさんは(贈与それ自体による直接的な快楽が得られるだけでなく),その贈与の記録を他者との関係を生む力としてブロックチェーンに刻んでもらうことができます.
それだけでなく,Bさんから贈られたトークンと感謝のメッセージは,Aさんの「人となり」を証明し社会的信頼を高める効果を持ちます.
このとき新経済の中では他者が喜ぶ贈与をすることがもっとも合理的で「経済的」な行為となるのです.
【note1】
本節の冒頭にあるように,贈与経済の負の側面を取り払いましたといっても,あえて人に贈与することは「生活」の足しにはならないと思われるかもしれません.しかしそれはあくまで私たちが資本主義経済の中で生きているからであって,「贈与経済2.0」が目指すのは,資本主義とは異なる新しい「経済」を作り,その中で人々が生きていくことです.同じことは斎藤幸平の提案する脱商品化の戦略にも当てはまるでしょう.つまり現状,ものやサービスがタダになって困るのは私たちが資本主義の中にいるからであり,収入がなくなっても同時に生活に必要なあらゆるもの(いわゆる社会的共通資本)が脱商品化されれば,何ら問題は生じないはずです.例えば出版されている本をpdfとしてネット上で無償でアクセス可能にすることは,おそらく技術的には既に可能であり,著作権法がそれを妨げているにすぎません.そして本の出版がお金にならない場合にも,書きたい人はなお本を書くでしょう(書きたい人だけが本を書けば良いのです).既に資本主義の下で生産力は充分に上昇しているため,現在ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)に吸収されている大多数の労働力をエッセンシャル・ワーク(必要労働)へと民主的に再配分すれば,本に限らず社会的共通資本全般を脱商品化し,ポスト希少性と余暇社会を実現することは無理のない話だと考えられます.標語的には「タダ働き,みんなですれば,怖くない」とでもなるでしょう(参考:A.ベナナフ『オートメーションと労働の未来』).
【note2】
「従来の贈与経済においては,負債感を与え社会的な優位を確保するために人々は他者よりも多くの贈与をしようと競争したのでした」(第5段落;p.132).他方で他者との関係を生み出すことをインセンティブとする贈与経済2.0においても,人間関係の量と強さが実効的な影響力・支配力という「意味」を持ち得ることから,ある種の贈与競争が起きないかは疑問が残るところです.少なくとも人付き合いが苦手な人が新経済で上手く立ち回れないのを,本人の「コミュニケーション能力」が足りないのが悪いと断じることは,新自由主義的な自己責任論のイデオロギーの過ちを繰り返すことになります.あるいは白井聡が指摘しているように,若者の「コミュ力」の低下が原因と考えられがちな大学におけるいわゆる「便所飯」の問題も,真の原因は大学という空間の新自由主義的な再編・管理がサークル・スペースなどを潰し,あらゆる場所を「自分がそこにいて良いことを証明しなければならない場所」に変え,学生の居場所を奪ったことにあるのを踏まえると,新経済のネットワークはむしろ失われた居場所を回復するのに役立つかもしれません(斎藤幸平,松本卓也ほか『コモンの「自治」論』pp.39–41).
「感謝」は受贈者から与えられる:感謝の「重み」
贈与経済2.0は,贈与を受けた側が感謝の徴(しるし)としてトークン(ハート)を送る仕様になっているので,基本的には贈与を受けた側の評価として贈与が記録されます.
ただしその評価は少なくとも当事者の間では妥当なものと考えられたものとなるため,一定程度の客観性を持ちます.
さて,開発中のアプリでは毎日一定量の「ハート」が供給されるため,手持ちのハートがなくなるということはありません.
参加者はハートを送る量に応じて,感謝の「重みづけ」をすることができます.
重みはハート送付量の,「手持ちのハート総量との比」と「1日のハート供給量との比」の積
(感謝の重み)
=[(今回送付量)/(所持量)]
×[(今回送付量)/(1日にもらえる量)]
で測られます.
まず右辺第1項の動機は次の通りです.
ハートをたくさんあげればそれだけ多くの感謝を示せるようにしてしまうと,感謝を表明する上でハートをたくさんもっている人が有利になることになります.
つまりハートが資産性をもってしまいます.
これを避けるために,感謝の「重み」をハートの絶対量ではなく,手持ちのトークンの総量との比によって表現する方式が採用されています.
しかしこのとき例えば,手持ち1万ハートの8割にあたる8000ハートを送り,残り2000ハートになっても,再びその8割にあたる1600ハートを送ることで,いつでも何のリスクもなく「深い感謝」を継続的に示せることになってしまいます.
そこで第2項における「1日のハート供給量との比」も勘定します.
なおハートは「お金」と違ってあくまで感謝の「重み」を,ハートを送る相対的な困難さとして定量的に示す道具にすぎず,ハートには贈与を清算する(「チャラ」にする)力はないことに注意してください.
「不正」の回避
ここで贈与をすることに新経済上のインセンティブが生まれるとすれば,よい贈与の履歴を付けることを目的とした「不正」が行われるようになる可能性が考えられます.
例えば,友人と示し合わせ,特に何の贈与も行われていないにもかかわらずトークンを送り合って,互いに「深い感謝」の記録を刻むというようなことが考えられます.
[あるいは安直ですが,単純に他人を脅してトークンを送らせ,偽りの記録を付けさせることも考えられるでしょう.]
しかし,いくつかの不正のパターンが確立することで,逆にそれを見極めて検出し,不正の可能性がある場合にアラートを表示する仕組みを作ることは比較的容易です.
このように「不正」に贈与の履歴をつけることはできても,それがどのような「意味」をもつかはやはりオープンであることによって,不正の問題は回避できると思われます.
贈与の履歴は「信用スコア」なのか?
贈与の記録を個人の社会的信頼の基盤にするという点では,贈与経済2.0は中国の「信用スコア」と同じもののように思われるかもしれません.
中国では決済サービス大手のアリペイによって,ウェブでの行動履歴や購買履歴,SNSの使用履歴などの情報をAIによって総合的に評価し,スコア化するシステムが導入されています.
しかし,それらは本質においてまったく異なるものになります.
第1に,アリペイの「信用スコア」はそれを算出するアルゴリズムが一切公開されておらず,「信用スコア」自体を信用する理由はありません.
しかも政府が信用スコアを恣意的に操作しうる以上,人々は見えない「評価者」の目を気にしながら行動することを強いられ,「個人の自由」は著しく制限されることになります.
他方で新経済における贈与の履歴においては,贈与の「意味」は常に開かれているべきものとして位置づけられます.
前述のような「不正」を抽出するアルゴリズムについても,常にオープンな環境で開発されなければなりません.
第2に,アリペイが信用スコアの算出に用いる「ビッグデータ」は,特定の会社が保有するものであるのに対して,贈与経済2.0における贈与の履歴は,改ざん不可能で誰にも不正利用されないことがあらかじめ保証されており,中央集権的な管理から離れて「データの民主化」と呼ぶべき状況がはじめから実現しています.
IDを自分自身で管理する
さらに贈与経済2.0では,第三者機関に証明を求めずとも,自分のアカウントに刻まれた贈与の履歴によって,人々は自分の身元保証を自らの手でできることになります.
贈与経済2.0は利己的なシステムなのか?
贈与経済2.0もそのインセンティブが個々人の欲望にあるという点では資本主義経済と同じ構造をもっているといえますが,だからといって新経済もまた資本主義経済と同様に「利己的なもの」であるということにはなりません.
むしろ人間が欲望を満足させるために「利他的」に振る舞うことは普遍的に見られる現象であり,贈与経済2.0では他者関係の中で自分の欲望を満たすために,まさに利他的に振る舞うことが要求されます.
もちろん,新経済のインセンティブ設計においては贈与の目的が「相手が喜ぶこと」から外れて,「自分の社会的信頼を作るため」に移動することになるのではないかと思われるかもしれません.
しかしそれでも,贈与にはいつでも個別の宛先がある以上,「なぜほかならぬ私がこれを受け取るのか」という「わからなさ」が発生するため,単に贈与を「相手が自分のために勝手にやったこと」と処理できないことになります.
【note:贈与における承認欲求の肯定】
従来の贈与経済では負債感が,贈与経済2.0では他者との関係を生み出すことが,そのインセンティブとなっていることを見てきました.しかしpp.133–134にあるように,それ以前に贈与によって他者から喜ばれることはそれ自体で快楽です.そうであるならば,贈与を「偽善」と見なす資本主義経済の「道徳」を内面化することで,私たちはそのような快楽を抑圧されていることになります.なるほど,もちろん一般に人は他者に何かを与えることを通じて,自分のことを相手に認めさせたいという欲求を抱いているのだとすれば,それは偽善だと言えるかもしれません.しかしそれは実のところ,何ら批判になっていません.太古よりそのような承認欲求や自己顕示欲は贈与と不可分に結びついており,贈与の1つの重要な原動力となってきました.それは自然であり,開き直るようですが,それで良いのです(欲求を露骨に表出せず,謙虚さの内に隠す限りで).むしろそのような人間的な感情を認めなければ,極端な利他主義・全体主義と功利主義の2項対立に陥り,身動きが取れなくなってしまうでしょう.そのどちらも社会の理想として掲げることはできません(参考:山本眞人『コモンズ思考をマッピングする ポスト資本主義的ガバナンスへ』).
贈与経済2.0の「財産」は相続されない
もう1点,こうして社会的信頼の基盤として紡がれるアカウントの履歴が世代間で引き継がれるものではないという点も強調しておきたいと思います.
財を成した人が自分の子どもに財産を引き継ぐ資本主義経済では,絵に描かれた「平等」は実際には親の経済状況によって歪められており,また従来の贈与経済においても世代間で負債を引き継ぐことで共同体内での贈与の「フェアネス」を維持していたことを考えると,これは画期的なことだと考えられます.
贈与経済におけるコミュニティの位置づけ
贈与経済2.0におけるコミュニティとは,贈与にまつわる「物語」を共有できる人々の集まりということができるでしょう.
共有される「物語」の中でコミュニティ内で各々の贈与の「意味」が見出され,それがそのままコミュニティ参加者の行動を統制するコード(≒ルール)になります.
コミュニティのルールは自分が望む限りで引き受けられるものになっています.
これは「お金」を稼ぐために,ときに自分が主体的に引き受けられないような「道徳」に従わなければならない資本主義経済とは対照的です.
【note】
冒頭の「『誰かのために』ではなく『みんなのために』なされる贈与は,贈与経済2.0においてどのように位置づけられるのでしょうか」(p.150)という問に対しては,コミュニティ内の社会的なコードから「何をすべきか」が導き出されるという部分(p.151)で,確かに一定の答が与えられていることになるでしょう.しかしこのとき,必ずしもコミュニティのメンバーに限定されない,不特定多数へ向けた知識の発信・公開といった「贈与」が,贈与経済2.0において正当に評価されうるものなのかという疑問はなお残ります.やむを得ないことではありますが,一般に贈与経済2.0の枠組みだけでは見落とされがちな,あるいは扱いにくい形の贈与も間違いなくあるでしょう.
直接民主制のコミュニティ
自分がコミットするコミュニティのコードを主体的に引き受けられるためには,コミュニティ内で各人が主体的にルール形成に関われるような仕組みが必要になるでしょう.
ただしコミュニティの外側から「そのやり方はよくない」とか「不自由を生んでいませんか」などと注文をつけることは,贈与経済2.0の精神に反します.
それでも新経済の「仕様」として,ひとつの「コミュニティ」に参加できるメンバーに人数制限を設けることで,直接民主制が成立するための必要条件は満たすことができます(人数があまりに多くなると直接民主制は機能しなくなります).
もちろん十分条件ではありませんが,新経済のコミュニティは贈与に基づく直接的な関係を基礎にして作られるため,自然に直接民主制が採用されることをある程度期待できるでしょう.
なお人数の上限としては試験的に,「ダンバー数」150に設定することが考えられます.
退出する自由
ただ人数制限を設けるだけでは,贈与に基づくコミュニティが「村化」していく危険は完全には排除できないでしょう.
コミュニティ内で「物語」を設定する権力が一部の人に偏り,特定の人間がコミットできない「意味」を外から与えられる状態に陥る可能性は否定できず,コミュニティに支配的な「物語」からの退出を余儀なくされることもあろうかと思います.
贈与経済2.0においてはしかし,コミュニティ内でなしてきた贈与の記録は,コミュニティから離れても残るため,それを別様なかたちで意味づけ,新しい関係へと育てていく可能性が確保されています.
これとは対照的に従来型の日本的経営では,理不尽なことを受け入れて会社に勤め上げることで「コア従業員」としての地位を高めたとしても,その奉仕は,それに意味を与える枠組みであるところの会社を離れてしまえば無化され,別の会社で評価されることはないため,従業員は会社を離れることができません.
コミュニティはオープンであるように促される
また,コミュニティとしても一部の人間に利するような運営は,新経済における「合理性」を欠くものとなるでしょう.
コミュニティの人数がダンバー数に制限されることで新経済では複数のコミュニティに参加することが一般的な形態になります.
このとき,ひとつのコミュニティに対する生活の依存度は低く抑えられるので「嫌ならば出る」ということが容易になります.
そうするとコミュニティの側でも参加者を確保するための努力をしなければ小さな経済圏での贈与の循環に甘んじなければならず,生活に必要なものを内部ですべて賄うことは困難となるため,コミュニティの運営も必然的にオープンであるように促されることになります.
贈与経済2.0においては,偏った価値観の共有を強いてメンバーをコミュニティに縛り付けるクローズドな運営よりも,メンバーを介して別の様々なコミュニティと接続する風通しのいいオープンな運営に「経済合理性」があることになります.
実際,例えば地域創生の枠組みでよくいわれるように,限界集落もまた「関係人口」を増やし,定期的に集落を訪れるような人を増やして若い移住者を獲得する必要があります.
贈与経済のネットワーク化
実際のところ,これまでも三重県の鈴鹿で営まれている「アズワン」さんのコミュニティをはじめ,資本主義経済のオルタナティブとして贈与経済圏を作ろうとする試みは様々なところでなされてきました.
しかし同じ「理念」を共有するかたちでのコミュニティの拡大にはやはり一定のハードルがあるといわざるをえません.
小規模にとどまる贈与経済圏は,(グローバルサウスに対する搾取の下で)世界中の多種多様な生産物にアクセスできる資本主義経済の市場に比べると,非常に「貧しい」ものにならざるをえないように思われるのです.
贈与経済2.0は,しかし,ブロックチェーン上に刻まれる贈与の記録がコミュニティの意味づけを離れてそのまま世界に通用するため,潜在的にメンバーをハブにして世界中の人々をつなぎうるプラットフォームになっています.
従来の贈与経済がもっていた規模の問題は,こうして贈与経済2.0において贈与経済のネットワーク化によって解消されることになると思われます.
「地域通貨」との違い
贈与経済2.0のオリジナリティにこだわるつもりはありませんが,従来の似た試みとの違いについて少し説明をしておきたいと思います.
まず「地域通貨」は目指している方向としては贈与経済2.0と大きく重なる部分がありますが,それらのどれをとっても資本主義経済の中で流通する「円」や「ドル」といった「法定通貨」との関係で「価値」を測る仕組みになっているため,結局は資本主義経済の「道徳」から人々を切り離すことはできないと考えられます.
また1980年代にカナダで最初に導入されたLETS(Local Exchange Trading System)は,贈与経済における「負債感」と類似の機能を貨幣経済上で実現できる仕組みということができるかもしれません.
しかし贈与経済2.0と比べると,こうした仕組みは「地域経済の枠組みが固定されること」「管理者の管理コストが高くなると同時に,どうしても中央集権的な仕組みにならざるをえないこと」「コミュニティ間の通貨の通用性がないこと」「なお法定通貨との関係で価値が算定されること」などが課題として挙げられると思います.
さらに比較的新しく導入された通貨「eumo(ユーモ)」もまた優れた取り組みですが,トークンを法定価格で購入する点において一定の限界があることを含め,LETSと同様の課題を抱えているといえます.
NAMの失敗
柄谷行人が展開したNAM(New Associationist Movement)と呼ばれる運動と,贈与経済2.0はどう違うのか気になる方もいらっしゃるかもしれません.
NAMにおいて作られた地域通貨はやはり,価値尺度を資本主義経済から借り受けるものだったため,少なくとも「実践」に関してはNAMと贈与経済2.0との違いは明確です.
柄谷のいう「非資本制的な生産と消費」もまた,学生運動に担われていた生協などを想定しているならば,それは「お金」を使うという点で贈与経済2.0と異なります.
いずれにせよはっきり言えることは,NAMが基本的にはマルクス主義的な「党」の発想から抜け切れていないと思われる,ということです.
また柄谷が「カリスマ性」をもっていたため,NAMが掲げる「自由なアソシエーション」という理念は,その実態において最初から裏切られていたことが,NAMの失敗した原因と考えられます.
これに対し贈与経済2.0は,決して左翼的なものではありませんし,そうでないことが重要だと思っています.
第5章 いま,何をすればいいのか──「贈与経済2.0」の作り方
新経済の実現可能性
前章ではこれまでの贈与経済の問題点を解消し,資本主義経済の問題を補う「贈与経済2.0」の具体的な仕様が示されました.
従来の贈与経済においては人間関係が束縛として機能する側面がありましたが,出来事としての贈与とその意味を与える物語を区別することで,各人が主体的にコミットできる関係の中で「経済」を回す仕組みを実現するものでした.
人々が直接的に自分の意志を反映できる小さなコミュニティをネットワーク化することで資本主義経済に比するグローバルな経済圏を作れることが示されました.
しかし現在の私たちの生活が資本主義経済に依存している中で「贈与経済2.0」を実現するための具体的な方策はいまだ明らかになってはいないといわざるをえません.
そこで本章では,すでに走り出しているプロジェクトの進捗を確認しつつ「贈与経済2.0」を社会実装するためのロードマップを描きたいと思います.
「ハートランド・プロジェクト」の展開
贈与経済2.0については,いくつかの紀要論文を書いた後,2022年6月に東洋経済新聞社のウェブ記事で発表したのがはじまりでした.
斎藤幸平さんとの対談の記事が注目されたこともあって,贈与経済2.0の実現に向けて800名ほどの参加者に恵まれました.
どんな人々が集まったのか
意外にも非常に多様なバックグラウンドの方々が集まってくれました.
まず資本主義経済の中で一定の「成功」を収めている方々が積極的に力になってくださったのが印象的でした.
それぞれの立場で資本主義経済の「限界」を感じておられて,今後のことを考えると資本主義経済の「先」を見据えなければならないのは,ほぼ不可避と考えられている方が多かったことに,時代の流れのようなものを感じました.
その一方で,資本主義経済に対する違和感に基づいて別なかたちの生き方がないか,自ら探されている方々も多く参加いただいています.
政治的・社会的なスタンスも,左派から「トランプ主義者」に至るまで様々です.
こうした状況は贈与経済2.0が,「同じ理念の共有」を強いるのではなく,政治的な立場を超えて受け入れられるものになる可能性を示唆していると考えることができるでしょう.
新経済を実装するための新経済
特筆すべきは,贈与経済2.0を実装するためにやらなければならない専門的な仕事を,メンバーの方々がまさしく「贈与」で引き受けてくれているということです.
とりわけブロックチェーンまわりの開発は,Solidityという特殊なプログラム言語を用いてセキュリティ上非常に細かな配慮をしながら進めなければならず,普通にエンジニアを雇って開発を依頼すれば数千万円規模の初期投資は免れない状態がありました.
しかし小野田雅之さんと古賀優輝さんのおかげで自前のアプリを開発することができています.
新経済を実装しようというアプリでは,彼らに返せるものは「ありがとう」しかありません.
これは既存の価値基準では「意味がわからない」贈与であり,まさに大きな「モヤモヤ」がすでに蓄積されているといえます.
実際,ご本人たちに聞いても「どうしてほしいというわけではない」といわれていて,何らかの見返りが期待されているわけではないことがわかります.
「カリスマ」が不在であることの重要性
こうしたことは,外から見るとなにか宗教じみたコミュニティができているように見えるかもしれません.
実際,このようなことが誰かカリスマ性をもった人物を中心にして起こったのであれば,宗教の「物語」で理解することはあながち間違いともいえないでしょう.
しかし,新経済を実装するための新経済で贈与いただいている方々の間では,何か超越的あるいはカリスマ的なものではなく,むしろ贈与経済2.0の実現という「物語」がコミュニティの核になっているといえるでしょう.
実際,参加者にお話をうかがう限り,当人たちも「よくわからない」ながらも,現行の社会問題の解決策として,贈与経済2.0が一番可能性が感じられるものだったために協力いただいているということのようです.
そして著者(荒谷大輔)の提案は叩き台にすぎず,すでにプロジェクトは著者の手を離れて,カリスマを必要としないかたちで様々な人のコミットメントによって進められており,それはプロジェクトにとって好ましいことと考えられます.
ただしこれはあくまで新経済の実現を目指す「ひとつのコミュニティ」の中での話であり,この後実装されていく贈与経済2.0に参加するには,新経済の実現へ向けた貢献は必要ありません.
東京・高円寺と石川・白峰の実証実験の開始
プロジェクトは2023年4月からトヨタ財団の助成を得て,2024年4月からは東京・高円寺と石川・白峰の2地域で実証実験をはじめることになっています.
(助成金は参加者に還元しようとしたところ「いまさらわずかな金額をもらっても」と固辞され,企業の方への発注に使うことになりました.)
高円寺の街は都心部に位置しながら多種多様な「部族性」を強くもつ街ということができるかもしれません.
実証実験では,都市圏において資本主義経済のオルタナティブをどれだけ広げていけるかを検証したいと思います.
他方,石川県の白峰地域は「限界集落」となっており,実証実験では地域で根づいている贈与経済を外に開かれたグローバルなものへとつなげていく道筋を探ることが目指されます.
新経済への参加によって潜在的な関係人口を増やすことがどういった効果をもつか,地域の日常的な贈与の記録が外からみて訪れたくなるほどの魅力をもちうるのかどうかを確かめたいと思います.
贈与経済2.0の実現に向けて1:資本主義経済の中で贈与をやってみる
2025年にはいよいよ,世界中の人々が自由に新経済に参加できる環境が整うことになります(個人のアカウントを一方的に停止あるいは操作する運営主体は存在しません).
もちろん無理して新経済を試していただく必要はまったくないと思います.
しかしもし,資本主義経済の「道徳」を一般的形式として残しながらも,それに縛られない関係を特定の他者との間で開くことに何らかの可能性を見出だせるようであれば,ぜひ試しに贈与をしてみていただければと思います.
付き合ってくれる人を探す必要があるのが最初のハードルになるかと思いますが,贈与経済2.0が関係を基礎にするものである以上,こればかりは仕方のないところです.
「何を贈与するのか」については,相手がうれしいと思うことをするのが,基本的でしょう.
あるいは相手がもらってくれないこともあるでしょうが,それはそれで仕方ないことだと思われます.
ともあれ何らかの贈与が実現したら,相手にハートを送ってもらい,「ありがとう」の記録をブロックチェーン上に刻んでもらいます.
その贈与の記録をもとに「新しい関係」が模索されることになるでしょう.
「関係」といっても,必ずしも重く受け止める必要はありません.
「会ったら挨拶する」などということもひとつの関係だと思います.
贈与経済2.0の実現に向けて2:コミュニティ単位での参加
会社単位で贈与経済2.0に参加いただければ,お金を払わずとも「社内ポイント制度」と同じ効果が期待できます.
またボランティアの担い手が不足している自治会などが,コミュニティ単位で贈与経済2.0に参加していただければ,贈与の連鎖をコミュニティの内部に閉ざすことなく,参加者を増やしていくことができるでしょう.
加えて,「ケア労働」と呼ばれる資本主義経済の枠組みでは評価しづらい他者への気遣いを正当に評価するために新経済は大きな役割を果たしうると思います.
贈与経済2.0の実現に向けて3:ネットワーク化
こうして様々な場所で贈与経済2.0が導入されていくことで贈与経済圏のネットワーク化を促進していくことができるでしょう.
贈与経済2.0に参加する人々が増えれば増えるほど,そこで提供される贈与の種類と量が増えていき,人々はやがてお金を稼がずとも,新経済の中だけで生きていくことができるようになります.
こうして贈与経済2.0が,資本主義経済と並行しながら社会実装されていく現実的な道筋を得ることができました.
それは非現実的な理想ではなく,私たち自身の欲望に即して実現可能なことだと思われます.
第6章 未来の社会はどのようになるのか──「近代社会」を超えて
贈与経済2.0の社会実装によって社会はどう変わるのか
贈与経済2.0が社会実装されれば,ネットワーク化された贈与経済圏の中で人々の労働の成果が分配されることになり,必ずしも資本主義経済の中で生きていかなくてもいい選択肢が生まれることになるでしょう.
ただし繰り返せば,この試みは何らかの「革命」によって資本主義経済のシステムを壊そうというものではなく,むしろ並存しながら別のグローバル経済圏を開こうとするものでした.
それ故,贈与経済2.0が社会実装されてもお金を媒介にして他人の労働の成果物を獲得するという現行の仕組みは(ある意味では当たり前ですが)そのまま残ることになります.
しかしそれでも,新経済が実装されれば,お金を稼がなければ生きていけないという現状の社会の拘束から人々が解放されます.
贈与経済2.0を導入することによる変化は,それだけに留まらないかもしれません.
資本主義経済の発展の少なくとも一部が「お金を稼がなければ生きていけない」という人々の状況を逆手にとり「死ぬよりはまし」な労働環境を強いることで実現する部分があったとすれば「別な選択肢」の実現はその前提を覆すことになるからです.
第1章で確認したように,「自由」「平等」「民主主義」など「近代社会」を特徴づける概念は(ルソーの構想を別にすれば)すべて,資本主義経済のシステムとして実現しました.
別な経済で生きる選択肢ができることで,その枠組みはどう変化しうるのでしょうか.
最後の章では,そうした未来の社会のあり方を検討したいと思います.
「安心」から「信頼」へ
第1章で見たように資本主義経済は,システム全体での「よい/悪い」を一元的に決定する仕組みでもありました.
しかし新経済の中だけで生きる人々が増えてくれば,資本主義経済の「道徳」を社会全体で一元化することはできなくなっていき,これまで私たちが「常識」としてきた価値観を他人にも押し付けることはできなくなると予想されます(それは基本的には好ましいことでしょう).
新経済におけるコミュニティの運営は,コミュニティ外の人々にとっても通用性の高いルールを適用することが「合理的」であり,コミュニティに属する人も他者関係の中で生きていく上でルールを守ってくれると期待できるので,現行の資本主義経済の「道徳」がすべての人に期待できなくなったとしてもまったくのカオスになることはないと思われます.
それでも人によっては,これまで維持されてきた社会的な「安心」が崩されると感じられるかもしれません.
社会心理学者の山岸俊男が実験によって示したように,自分と同じ規範を他者に押し付けることによって実現する「安心」は,他者への一般的な「信頼」を阻害します.
そうであるならば,「安心」が失われる不安は「信頼」によって補填されうる可能性があると思われます.
社会において価値判断が一元化されず「安心」できない状態におかれたとしても私たちは他者の価値観を尊重しつつ,互いに「信頼」を深めていくことができると考えられるのです.
資本主義経済における「道徳」の脱魔術化
また,資本主義経済において一元化される「道徳」が,必ずしも「安心」できるものではないという点も見ておく必要があるでしょう.
例えば合法的に行われる「悪質」な商売は,企業にとってはまさに競争に勝ち残るために必要なことであり,資本主義経済の「フェアネス」に則して導かれるものです.
資本主義経済ではまた「広告技術」によって「正しい物の見方」を人々に内面化させる手法も一般化しています.
しかし,資本主義経済の「道徳」がいつでも必ず「正しい」ということもできないでしょう.
贈与経済2.0の中で人々が価値判断の「自由」を手にすれば,資本主義経済の「道徳」は現行の盲目性を離れ,内実を問われるようになります.
価値観の違いをどうやって調停するのか
しかし,贈与経済2.0において,それぞれのコミュニティごとに異なるルールが設定されるのだとしたら,それらが対立する場合には,どうすればいいのでしょう.
特定の理念の共有を求めないことが贈与経済2.0の成立条件ですので,贈与経済2.0が全体として何らかの「正しさ」を設定することはありません.
もちろん,「近代社会」の枠組みが維持されている限りは,最終的にはそれぞれの国家の法に照らして「正しさ」が判断されることになります.
しかし資本主義経済の価値観の一元化が崩れる可能性がある以上,戦後の「国際秩序」を所与とせず,贈与経済2.0において異なる価値観の間の調停をする方法を考えておく必要があるように思われます.
「全体で共有されるべき「正しさ」をみなで議論して決める」といったような解決方法では,おそらくこれまでのオルタナティブな試みが陥った全体主義の危険を回避することは困難だと思われます.
しかし贈与経済2.0には,「正しさ」を共有しなくても「価値観の違い」を調停する方法があります.
その新しい方法について,従来の熟議民主主義の「失敗」に照らして考えてみたいと思います.
熟議民主主義の失敗
熟議民主主義では,互いの価値観を前提にせず議論の中から「正しさ」を導き出すことが試みられます.
しかし熟議民主主義においても,議論を可能にするための最低限の「正しさ」の共有が求められます.
例えば熟議民主主義の代表的な論者のひとりであるイアン・オフリンによれば,互いに納得できる「理由」を示すことが,開かれた議論をする上での最低限のルールだといいます.
オフリンの要求する条件は一見,妥当なようですが,上手く理由は話せないが感覚的なレベルで反発を感じるといった人は開かれた対話の場に参加できないことになります.
そしてトランプ大統領に投票した人々はまさに,「エリート」たちが押し付ける「ポリティカル・コネクトネス」に感情的な反発を覚えつつも,「理性的な話し合い」ができないとして議論の場から排除された人々です.
これを踏まえると,現状の熟議民主主義の試みは「熟議」についての同じ価値観を共有する人々だけを対象にし,異なる価値観をもつ人々を排除することにおいて,社会の分断を悪化させるものになっていると思われるのです.
【note】
しばしば説得力不足な意見は感情論に陥っていると見なされます.この裏も真とは限らないものの,裏を返せば,主張は弁論術で押し通せさえすれば正当化できるという発想が背後に透けて見えます.しかし第2章のnoteで既に言及したように,あらゆる当為命題は独断論であり,それ故,究極的には感情論に他ならないことになります.したがってある主張に対する違和感の表明が「論理的でない」「感情論だ」という批判は当たりません.むしろそれは相手が論理とは何であるかを分かっていない証拠でしょう.改めて確認すれば,論理というのはある結論を導く思考の道筋のことであり,それは出発点となる前提条件の正しさまでをも保証するものではありません.
ゼロ地点ルール
これに対し贈与経済2.0の哲学に基づけば,そうした最低限の「正しさ」も共有せず「ゼロ」から「価値観の違い」の調停を行えます.
例えばより強い理由で相手を納得させるのを競うのではなく,自分の「正しさ」の根拠を十分に疑えた方が勝ちというルールで対話できれば,ゼロから互いに納得できる「正しさ」を生み出すことができると考えられます.
これを「ゼロ地点ルール」という名前で呼ぶことにします.
このとき自分の価値観の前提を表に出すことなく,相手の言動の前提の見直しを相手に要求し,相手の失点を得るというのが,ゼロ地点ルールにおける一般的な議論の手法となります.
そうして得られたポイントの総計で,異なる価値観を調停することができます.
この方法のメリットは,相手の「正しさ」を押し付けられる危険を感じずに対話できるため,「正しさ」の押し付けに対する感情的な反発が解消される可能性が見出されることです.
ゼロ地点ルールを採るもうひとつの大きなメリットは,対話に参加する条件をまったく平等にできるという点です.
実際,必要なのは他人のいうことに耳を傾け,自分で身につけた価値観を振り返ることであり,それは誰にでもできることだと思われます.
贈与経済2.0全体における価値観の違いは,こうして,特定の「正しさ」を共有することなく,ゼロ地点ルールを適用することによって調停できることになります.
【note】
確かにお互いの議論の前提として事実命題だけを想定すれば,その真偽は現実と一致するかを調べることにより,客観的に確定しうるでしょう.しかし繰り返しになりますが,Humeの“法則”より価値判断を含む命題(一般に当為命題)の前提は必ず当為命題を含みます.例えば三段論法に関して言えば,仮に議論の小前提が純粋な事実命題であっても,大前提として何らかの当為命題が暗に仮定されていることになります.このとき,その当為命題の妥当性を判定するには一定の価値観があらかじめ無条件に共有されている必要があることは,ゼロ地点ルールを採用する場合にも変わらないと考えられます(さもなくば議論は循環論法や無限後退に陥ります).
「利用規約」を民主化する
それでも,そうした方法で調停することを参加者にあらかじめ了解してもらう必要はあるでしょう.
その意味においては,新経済に参加する人々全員にあらかじめコミットしてもらう「利用規約」のようなものが必要であることになります.
しかしその場合には,「プラットフォームの権力」のようなものが発生しないように注意する必要があると思われます.
実際,現在の私たちの社会では,ひとつの企業がプラットフォームとして生活に欠かせないインフラの機能を担う位置を確保した上で最初にそれが提示されていたならば使わなかっただろう規約を,合法的に事後的に改変することがしばしば起こります.
望ましい贈与経済2.0を実現するには,少なくともそのような事態は避けねばならないと思われます.
そのためには,「利用規約」の改定を利用者の合意に委ねることを利用規約自体に書き込む必要があるでしょう.
多くの方々の参加をお待ちしています
いずれにせよ,議論は開かれており,これまで述べてきたような新経済の仕様についても,根本からの見直しを求めるようなご批判をいただけるなら,それは非常にありがたいことだと思います.
現行のプロジェクトは単にひとつの叩き台の役割を演じられるだけで十分で,未来の社会のあり方をゼロ地点に立ち返りながら議論できるような場が実現されるのであれば,現行のプロジェクトとは異なる試みが実装されてもまったく問題はないのではないかと考えます.
ぜひ多くの方々に議論に参加していただき,分断が深刻化していく状況の中でもともに未来の社会を作っていければと思います.
参考資料|リンク先
ハートランドWebサイト https://heart-land.io
ハートランドdiscordサーバー https://discord.gg/pU6xEcrnay
ハートの送り方:マニュアル https://heart-land.io/araya/2-0-4c7d00318c874010bc286a8b6ff7855b