マイケル・サンデル,2021,実力も運のうち 能力主義は正義か?(鬼澤忍訳),株式会社早川書房,東京.
「実力も運のうち」というのは,私が自由意志否定論を標語的に表す謳い文句として思い付いたものである.
後日,これと全く同じタイトルの本があることを知った.
マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』である.
この本は自由意志否定論に文脈を与え,それを「現代的な競争社会の論理を克服するための哲学」 として打ち出し得ることに気付かせてくれた (今では「新自由主義的イデオロギーのアンチテーゼ」と位置付けている).
すなわち,努力が報われないことや自分の能力が認められないことへの憤りもよく理解できる.
しかしながら競争原理や能力主義の正当性が近・現代的な主体的人間像に求められ,それが「“負け組”の失敗は自業自得だ」という自己責任論や批判と連動するならば,そこには見過ごすことのできない重大な認識の誤りと不正義が含まれると言わねばならない.
と言うのも,人間は決して行為の自由な主体ではあり得ないからである,というように.
以下では,この本の内容を簡単にレビューする (青字部分は私のコメント).
ただし個人的な興味に基づき内容を取捨選択してあることを断っておく.
経済的成功・報酬は人びとの美徳や道徳的功績の真価を反映しているという,市場主導型の社会に纏わる通念を退け,労働の承認と評価を取り戻すこともこの本の重要なテーマの1つである.
第1章 勝者と敗者
第1章では2016年の大統領選挙におけるトランプの勝利の背後に,労働者と中流階級がメリトクラシー[能力主義]の「勝者」であるエリートに対して抱くようになった憤懣があったことを論じている.(解説p.329)
出世のレトリック
- 「機会のレトリック」
懸命に働き,ルールに従って行動する者は「彼らの才能が許すかぎり」出世できなければならない.
-
- オバマ「やればできる (You can make it if you try)」
だが,このような「出世のレトリック」は現実にそぐわず,現代の経済において社会的に上昇するのは容易ではない.
ポピュリストの抗議の背後にある,労働者階級と中流階級の多くの有権者がエリートに感じている怒りの主要な原因は「能力主義の倫理」に関係している.
能力主義の倫理
この節は問題意識として重要なので,全文を引用する:
能力主義にまつわる問題は,その実践が理想に届いていないことだけではない.
それが問題だとすれば,解決策は「機会の平等」を完全なものにすることだろう.
人生の出発点にかかわらず,人びとの努力と才能が許すかぎり確実に出世できる社会を目指せばいいはずだ.
しかし,道徳的にであれ政治的にであれ,完全な能力主義でさえ満足のいくものかどうかは疑わしい.
道徳的な観点からすると,才能ある人びとが,市場指導型の社会が成功者に惜しみなく与えてくれる巨額の報酬を受けるに値する理由は,はっきりしない.
能力主義の倫理を支える論拠の中心には,自分で制御できない要素に基づいて報酬を受ける,あるいはお預けにされるのはおかしいという考えがある.
だがある才能を持っていること (あるいは持っていないこと) は,本当にわれわれ自身の手柄 (あるいは落ち度) だろうか.
そうでないとすれば,次の点を理解するのは難しい.
自分の才能おかげで成功を収める人びとが,同じように努力していながら,市場がたまたま高く評価してくれる才能に恵まれていない人びとよりも多くの報酬を受けるに値するのはなぜだろうか?
能力主義の理想を賞賛し,自らの政治的プロジェクトの中心に置く人びとは,こうした道徳的問題を見過ごしている.
彼らはまた,政治的により重要な部分を無視してもいる.
勝者のあいだでも敗者のあいだでも,能力主義の倫理が促進する道徳的に魅力のない姿勢のことだ.
能力主義の倫理は,勝者のあいだにはおごりを,敗者のあいだには屈辱と怒りを生み出す.
こうした道徳的感情は,エリートに対するポピュリストの反乱の核心をなすものだ.
ポピュリストの不満は,移民や外部委託 (アウトソーシング) への抗議以上に,能力の専制に関わっている.
こうした不満にはもっともな理由があるのだ.
公正な能力主義 (社会的地位は努力と才能の反映であるとするもの) の創造を執拗に強調することは,われわれの成功 (あるいは不成功) の解釈の仕方に腐食作用を及ぼす.
そのシステムが才能と勤勉に報いをもたらすという考え方は,勝者をこうそそのかす.
つまり,彼らの成功は彼ら自身の手柄であり,彼らの美徳の尺度だと考えるように──そして,彼らよりも運に恵まれていない人びとを見下すように,と.
能力主義的なおごりは勝者の次のような傾向を反映している.
すなわち,彼らは自らの成功の空気を深く吸い込みすぎ,成功へと至る途中で助けとなってくれた幸運を忘れてしまうのだ.
頂点に立つ人々は,自分は自分の手にしている境遇にふさわしい人間であり,底辺にいる人びともその境遇にふさわしいという独りよがりの信念を持ちやすい.
これは,テクノクラート的な政治につきものの道徳的姿勢である.
運命の偶然性を実感することは,一定の謙虚さもたらす.
「神の恩寵がなければ,つまり幸運な偶然がなければ,私もああなっていただろう」と感じられるのだ.
ところが,完全な能力主義は恵みとか恩寵といった感覚をすべて追い払ってしまう.
共通の運命を分かち合っていることを理解する能力を損ねてしまうのだ.
自分の才能や幸運の偶然性に思いを巡らすことで生じうる連帯の余地は,ほとんど残らない.
こうして,能力は一種の専制,すなわち不当な支配になってしまうのである.
屈辱の政治
「ドナルド・トランプは自分自身が億万長者であるにもかかわらず,こうした[ポピュリストの]怒りを理解し,利用した.」
ポピュリストの反乱
ヤング『メリトクラシーの法則』(1958)
- 「能力主義 (メリトクラシー)」という用語を創出
- 能力主義による暗黒郷 (ディストピア) を予想
【やればできるというトートロジー】
「やればできる」「為せば成る」というのは文字通りの意味にとれば自明なトートロジーにすぎず,実際には言外には「やるかやらないかは自分次第」という人間の主体性と自由意志を示唆している.
【努力と才能】
「才能」というのは「努力できること」を含んでおり,努力できないのは「努力する才能」がないからである.
より正確には,才能の有無に関わらず,努力するか否かを選べるような自由意志が存在しない.
- 努力が報われる保証はない.
- それ以前に,努力することを選ぶ自由意志は存在しない.
第2章 「偉大なのは善良だから」──能力の道徳の簡単な歴史
第2章では,長い歴史の中で,「神の恩寵」であったものが,「メリット」に応じた富という見方へと転化してゆく過程を描く.(解説p.329)
能力が毒を含むようになったのは,正確にはいつのことであり,またその経緯はいかなるものだったのだろうか?(p.51)
果てしなき能力主義
聖書的な物の見方の2つの特徴が,現代的な能力主義を暗示している.
- その1つが人間の主体性の強調,
- もう1つが不運に見舞われた人に対する厳しさだ.
自分の運命は自分の能力や功績の反映だという考え方は「人間中心的な見方」(p.54)である.
救済と自助
- ペラギウス (5世紀のイギリスの修道士)
初期のキリスト教神学における自由意志と個人の責任の擁護者
- アウグスティヌスによる反発
人間の自由意志を認めると,神の恩寵を前にしての謙虚さが,自らの努力に対する誇り取って変わられてしまう
11世紀後の宗教改革
反能力主義
- ルター
善行による救済を拒絶し,人間の自由すなわち自助の余地を残さなかった (→免罪符の批判)
- カルヴァン
救済とは神の恩寵の問題であり,人間の能力や功績によって決まるものではない
しかしながら誰が救われ,誰が地獄に落ちるのかはあらかじめ運命づけられているという,カルヴァン主義の予定説は,人々に耐え難い不安を生み出した.
このような背景から,現世の成功は誰が救済される運命にあるかのよい目安だと考えられるようになった.
そして現世のそうした活動を選ばれた者のしるしと見なすことが,選ばれる原因と見なすことへとすり替わり,人は労働によって救済されるというピューリタンの労働倫理・能力主義に変質・逆戻りした.
それこそまさに,ルターが神の恩寵への侮辱だと見出した教義である.
神の摂理という思想──当時と現在
成功を収める人びとはその成功に値するという,現代の能力主義の勝利主義的側面は一種の摂理主義であり,その源泉である神学的論争の痕跡が見て取れる.
【note】リアーズ (p.66)
「運命を支配する個人の責任にこだわらない文化は,もっと包容力があり,寛容で慈悲深いものだ」.
幸運や運命の移り気な性質をよりはっきりと意識していれば「幸運な人びとは次のように促されるかもしれない.
自らの不幸を想像して能力主義神話の傲慢を乗り越えるように,そして,人びとが自らが値するものを手に入れる過程が,いかに気まぐれで予測不能なものかを認めるように」.
健康と富
「繁栄が救済のしるしだとすれば,苦難は罪のしるしである」という論理は,
「必ずしも宗教的な想定と結びついているわけではない.それは,人間の自由を束縛のない意志の実践と考え,人間には自分の運命に対して徹底的な責任があるとするあらゆる倫理の特徴なのだ」.
病気ですら本人が健康でいるための努力を怠った結果であり,自業自得・自己責任であり,救済に値しないといった政治的な主張も公然となされている.
リベラルな摂理主義,歴史の正しい側
アメリカの (一部の) 政治家がよく口にする「アメリカが偉大なのアメリカが善良だから」というスローガンは,国家に応用された能力主義的信仰である.
【Spinozaの神との関係】
人は功績によって神の恩寵を獲得することができ,逆に不運な境遇は本人の落ち度だという人間中心的・能力主義的な想定は,Spinozaの汎神論とははじめから相容れない.
キリスト教の人格神と違って,Spinoza哲学では神はこの世界そのものであり,あらゆる事物は神の必然性に従って生起している.
第3章 出世のレトリック
第3章では再び現代を対象とし,メリトクラシーが「責任」「努力」「意欲」などのレトリックと結びつくことにより,実際にはきわめて不平等である社会体制と,困窮者への侮蔑と放置を正当化する機能を果たしてきたことが述べられる.(解説p.329)
過去40年にわたり,能力主義的な想定は,民主的社会において一般の人々の生活に深く浸透してきた.(p.90)
努力と正当な報い
過去半世紀にわたり,名門大学への入学はますます激しいものになってきた.
ストレスと苦闘に満ちたこの試練を乗り切るには,人生におけるいかなる成功も,勤勉と努力によって手に入れたのだと信じる必要がある.
こう信じているからといって,学生が利己的で狭量になるわけではない.
多くの学生が公共サービスをはじめする立派な仕事に多くの時間を費やしている.
しかし過去の経験が彼らを頑なな能力主義者にする.
先祖のピューリタンと同じように,彼らは自分が,自らの多大な努力によって勝ち取った成功に値すると信じているのだ.(p.92)
市場と能力
リベラル派の主張は,公正と生産性にとどまらず,市場擁護論に対するいっそう強力な第三の理念を指し示してもいた.
つまり,人々が努力と才能だけを基に競い合えるようにすれば,市場の結果は能力と一致するはずだというのだ.
機会の平等が真に実現している社会では,市場の人々に正当な報いを与えることだろう.
このように市場主義は能力主義に基礎を置くようになり,能力主義は
- 個人の責任というレトリック
- 出世のレトリック
- 懸命に努力し,ルールに従って行動する人びとは,才能と夢が許すかぎりの出世に値するという保証
に繋がった.
個人の責任というレトリック,また出世のレトリックは,この数十年の政治論議を活気づけてきたが,結果として,能力主義に対するポピュリスト的な反発の一因となったのだ.
責任のレトリック
1980年代から1990年代にかけて,社会保障制度をめぐる論争では,責任のレトリックが際立った役割を果たした.
責任のレトリックによれば「自らに落ち度がないにもかかわらず」困窮している人びとは,コミュニティに助けを求める権利があるとされるが,それは同時に自ら不幸の種をまいた人がそれに値しないことを示唆している.
責任のレトリックは,いまではあまりにもなじみ深いものになっているため,この数十年におけるその独特の意味や,成功に関する能力主義的理解との結びつきは見落とされやすい.
(中略)
責任はいまや「自分自身の面倒を見る責任,そしてそれに失敗すれば,結果は自分で引き受ける責任」の意味で使われている.
(中略)
間違った行動によるのではなく,不運のせいで苦境にある人びとの福祉受給資格を制限することは,人間を能力や功績に応じて処遇しようとする試みであり,その一例である.
才能の許すかぎり
あまり注目されていないことであるが,出世のレトリックがアメリカの政治的言説の中で目につくようになったのは,この40年のことに過ぎない.
オバマの出世のレトリックは能力主義の倫理と結びついていた.
すなわち,機会が真に平等ならば,人びとは才能と努力の許すかぎり出世できるだけでなく,その成功は彼ら自身の手柄なのであり,したがって,彼らは人生において手にする報酬に値するのである.
自分が値するものを手に入れる
【note】
1960年代から1970年代にかけて,英米の指導的哲学者は能力主義を拒否していた.
人々が市場で獲得するものは,本人には制御できない偶然──例えばある人の才能に対する需要やその才能がありふれたものか稀有なものかなど──に左右されるからだ.
やればできる?
アメリカ人はとりわけ,努力は成功をもたらす,自分の運命は自分の手中にあると固く信じている.
[意外なことに]フランスと日本では,大半の人が懸命に働いても成功は保証されないと答えている.
※ただし訳者の解説 (p.332) によれば,
結果としての「功績」(メリット) が原因としての「能力」と混同され,人びとに内在する「能力」という幻想・仮構に支配されている点で,日本の問題のほうがより根深い.
懸命に働くすべての人が成功を期待できるとすれば,成功できない人は自業自得だと考えるしかないし,他人の助けを頼むことも難しくなる.
これが能力主義の過酷な側面だ.
しかし,努力とやる気によって出世する能力へのアメリカの信頼は,もはや現実にそぐわない.
貧困層を脱して富裕層へとよじ登ることも,社会的上昇への一般的な信念が示唆するほど容易ではない.
見ることと信じること
2016年に,一般労働者に対するグローバリゼーションの悪影響が明らかになったとき,リベラル派のエリートが提示した出世のレトリックが伝えるメッセージは無慈悲なものだった.
不平等が拡大していたにもかかわらず,それはこう主張していた.
我々は自分の運命に責任を負っており,したがって,自分の身に起こる成功も災難も自分に値するのだ,と.
出世のレトリックは願望を表し,まだ果たされていない約束を指し示しているにもかかわらず,希望があったかも事実であるかのように主張される.
能力主義が願望の対象だとすれば,そこからこぼれ落ちた人はいつでも社会システムを非難できる.
だが,能力主義が事実だとすれば,うまくいかない人は自責の念に駆られることになる.
第4章 学歴偏重主義──容認されている最後の偏見
不平等への回答としての教育
これまでのリベラルで進歩的な政治は,グローバル経済が,まるで人間の力の及ばない事実であるかのように見なし,それに対する答えとして,労働者の学歴を向上させ,彼らもまた「グローバル経済の中で競争し,勝利を収める」ことができるようにすることに焦点を当てた.
ポピュリスト的感性を持つ作家のトーマス・フランクは,これを次のように批判した.
それは,実のところまるで答えになっていない.
成功している側が,自らが占めている有利な立場から申し渡す道徳的判決なのだ.
知的職業階級は手にした学歴によって定義されるため,彼らが大衆に向かって,あなたに必要なのはいっそうの学校教育なのだと語るたび,「不平等は制度の失敗ではない.あなたの失敗だ」と言っていることになる.
他人を見下すエリート
アメリカで行われたある調査について,長くなるが引用する.
この研究論文の執筆者たちは,大学卒のエリートが学歴の低い人びとに向けるさげすみの目を明らかにしただけでなく,いくつかの興味深い結論を提示している.
第一に,高学歴のエリートは学歴の低い人びとよりも道徳的に啓発されており,したがってより寛容であるというよくある考え方に異論を唱えている.
高学歴のエリートも低学歴の人々に劣らず偏見にとらわれているというのが
彼らの結論だ.
「むしろ偏見の対象が異なっているのだ」.
しかも,エリートは自らの偏見を恥と思っていない.
彼らは人種差別や性差別を非難するかもしれないが,低学歴者に対する否定的態度については非を認めようとしない.
第二に,こうして恥の感覚が欠如する理由は,能力主義に基づく自己責任の強調にある.
エリートたちは,貧しい人びとや労働者階級に属する人びと以上に,学歴の低い人びとを嫌う.
貧困や所属階級は,少なくともある程度まで,個人の力ではどうにもならない要因によるものだと考えているからだ.
対照的に,学業成績が悪いのは個人の努力不足であり,したがって大学へ行けなかった人の落ち度を示すというわけだ.
「労働者階級とくらべると,学歴の低い人びとはより責任が重く,より非難に値すると見なされる.
彼らはより大きな怒りを買い,よりいっそう嫌われるのだ」
第三に,学歴の低い人びとに不利なこうした評価は,エリートだけのものではない.
学歴の低い回答者自身が,それを共有しているのだ.
ここからわかるのは,成果に関する能力主義的見解がいかに深く社会生活に浸透しているか,それが,大学へ行けない人びとの自信をどれほど失わせるかということだ.
「学歴の低い人びとが,自身に押しつけられた否定的な属性に反抗しているという形跡は見られない」.
それどころか,彼らはこうした不利な評価を「内面化しているようにすら思える」し,「学歴の低い人びとは,学歴の低い人びと自身によってさえ,自らの状況に責任があり,非難に値すると見なされている」.
第5章 成功の倫理学
第5章は,現代の社会思想や哲学によるメリトクラシー批判が不十分であったことが,ハイエクやロールズを参照しつつ議論される.(解説p.329)
能力主義再考
能力主義に対する批判は次の2通りが考えられる.
- 1つ目の異論:正義に関わるもの
能力主義が十分に実現しさえすれば,つまり仕事や賃金が努力と才能をきちんと反映すれば,正義にかなう社会になるという考え方に疑問を投げかける. - 2つ目の異論:成功と失敗に対する態度に関わるもの
能力主義社会が公正であっても,それは善い社会ではないのではないかと懸念する.
能力主義に批判的な哲学者は,主として1つ目の異論に力を注ぎ,社会は人びとが値するものに基づいて仕事や賃金を割り振るべきだという考えを拒否する.
完全な能力主義は正義にかなうか
能力主義が完全に実現しさえすれば,その社会は正義にかなうという主張はいささか疑わしい.
能力主義の理想は不平等の解決ではなく,むしろ不平等の正当化である.
では,能力主義的な競争の結果として生じる不平等は,正当化されるだろうか.
われわれは自分の才能に値するか
- 第一に,私があれこれの才能を持っているのは,私の手柄ではなく,幸運かどうかの問題であり,私は運から生じる恩恵 (あるいは重荷) を受けるに値するわけではない.
- 第二に,自分がたまたま持っている才能を高く評価してくれる社会に暮らしていることも,自分の手柄だとは言えない.
自分の才能は自分の手柄ではないと認めてしまえば,能力主義的信念は疑問にさらされる.
努力する人は価値があるか
能力主義の擁護者は,成功が才能と努力の合成物であることを承知しつつも,努力と勤勉の道徳的意義を誇張する.
【根本:自由意志否定論】
繰り返しになるが,遺伝的要因や才能だけでなく努力もまた,人の自由意志によってコントロールできるものではない (自由意志は存在しない).
能力主義に代わる二つの考え方
- 自由市場リベラリズム
- 福祉国家リベラリズム (平等主義リベラリズム)
両者とも,正義にかなう社会では人びとが何に値するかに基づいて所得や資産が分配されるという能力主義の考え方に,説得力ある反論を提示する.
自由市場リベラリズム
20世紀に自由市場リベラリズムの擁護論として最も影響力があったのは,ハイエクによるものかもしれない.
ハイエクは経済的報酬が人々の功績,すなわち道徳的な手柄を反映しているという考え方を最初から拒否することで,所得の再分配に反対する.
ハイエクとは異なり,福祉国家リベラリズムの擁護者は,貧しい人びとを助けるために金持ちに課税することに賛成する.
ところが、驚くべきことに,所得や資産の分配は人びとが何に値するかを基準にすべきではないと考える点で,ハイエクと一致するのだ.
福祉国家リベラリズム
福祉国家リベラリズムの代表的な政治哲学者ロールズは,真の機会平等を実現した社会でさえ,必ずしも正義にかなう社会ではなく,この社会もまた人々の生来の才能の違いから生じる不平等と戦わなければならないと述べている.
才能の違いは階級の違いと同じように,道徳的には恣意的なものである.
ロールズは,才能ある者がその才能を発揮できないようにするのではなく,彼らが自らの才能よって市場社会で獲得する報酬に値するという見方を否定することによって能力主義と決別する.
そして才能によって市場で獲得される報酬はコミュニティー全体と分かち合うべきであるとする.
才能の不平等に対処するこの方法をロールズは「格差原理」と呼んでいる.
福祉国家リベラリズムは,それが必要とする連帯を形づくるのにふさわしい共同体意識を見出せないという難点がある.
【note】
カード・ヴォネガット・ジュニアは「ハリスン・バージロン」という短編で,優れた才能を持つ者にハンディキャップを負わせようとするディストピア的な未来を想像している (pp.190–191).
カード・ヴォネガット・ジュニアは自由意志を1つのテーマとする小説『スローターハウス5』『チャンピオンたちの朝食』を書いている.
【note:逆差別】
私は近・現代的な主体的人間像に基づく出世のレトリックや「“敗者”の失敗は自業自得だ」という自己責任論には否定的である.
とは言え,学力をはじめとする能力や,学問そのものまでも否定するつもりはない.
他人を不当に見下すような害意がないにも関わらず,ある人が単に高い能力を持っているというだけで逆恨みを受け,攻撃されることがあるとすれば,彼らもまた能力主義社会の被害者である.
【note】
ロールズは能力主義者に対して,「努力しよう (中略) という意欲でさえそれ自体が恵まれた家庭や社会環境に左右される」と応じる (p.192).
しかしながら努力するか否かを選べる自由意志が存在しないということは,我々が自然法則に従う物理的存在であることや,自由意志の概念自体の孕む論理的自己矛盾といった,遺伝的決定論や社会的決定論よりもファンダメンタルな立場から説明できる.
功績 (メリット) を拒否する
ハイエクとロールズは,政治的立場は異なるものの,経済的報酬は人びとが値するものを反映すべきだという考え方を拒絶し,功績や手柄を正義の基盤とすることを拒否する.
多額のお金を稼ぐことは個人の功績や美徳の尺度ではなく,個人が提供するスキルと市場で要求される技量の幸運な偶然の一致を反映しているに過ぎない.
市場と功績 (メリット)
現在の主要な公共哲学 (自由市場リベラリズムや福祉国家リベラリズム) が能力主義的想定を拒否しているにもかかわらず,政治的レトリックや一般市民の態度が,経済的報酬は功績や手柄に一致する,あるいは一致すべきだという考え方から離れようとしないのはなぜだろうか?
その理由はおそらく,2つのタイプのリベラリズムによる功績や手柄の拒否が,当初思えるほどには徹底していないということにある.
ハイエクは,われわれの市場価値は自分では制御できない要素によって決定されるから,功績の尺度ではないとはっきり指摘する.
だが,ハイエクは,社会に対する個人の貢献の価値が,その人の市場価値とは異なる何かである可能性を考慮していない.
そしていったん市場価値が社会貢献を代理するものと見なされると,能力主義的な成功理解にあらがうのは難しい.
市場価値 vs 道徳的価値
ことによると,市場結果は道徳的功績を反映するという考え方への最も手厳しい批判は,新古典派経済学の創始者の1人,フランク・ナイトによって1920年代になされたものかもしれない.
ナイトは,市場価格は道徳的功績や倫理的価値の尺度であるという考え方を痛烈に批判した.
ハイエクは裕福な人びとに,彼らが手にしている富は功績の尺度ではないが,社会に対する貢献の優れた価値を反映していると語る.
これに対しナイトは,ハイエクより徹底した能力主義批判,自画自賛に陥りにくい能力主義批判を展開している.
金儲けがうまいことは,功績の尺度でもなければ貢献の価値の尺度でもない.
成功に対する態度
次に平等主義[福祉国家]リベラリズムが能力主義的おごりをかき立ててしまう理由に移ろう.
成功に対する思い上がった態度は,ロールズ哲学が肯定する資格の意識によって助長されてもおかしくない──たとえその哲学が道徳的功績を拒否したとしても.
「私は,恵まれた収入や地位に道徳的に値するわけではありません.そうではなく,社会的協力のための公正なルールのもとで,それらを手にする資格があるのです」という成功に対する態度は,能力主義的態度と区別しにくくなる.
機会と選択
福祉国家リベラリズムの系譜に属する,「運の平等主義」として知られる哲学は,あらゆる種類の不運について人びとに補償すべきだと主張する.
しかし
- 助けを必要とする人は,自分が困窮しているのは自分の落ち度ではないことを示さなければならない.
- 運の平等主義は,公的支援を受ける資格が本当にある人を無力の犠牲者と見なすことによって,その名誉を傷つける.
偶然の事態や不運の影響を払拭しようとする運の平等主義者の試みは,結局のところ,能力主義の理想を指し示すことになる.
すなわち,所得の分配は道徳的に恣意的な偶発的事態ではなく,人びとが値するものに基づくべきなのである,と.
才能の価値を守る
自由市場リベラリズムと平等主義リベラリズムはともに,功績を正義の第一原理とすることを拒否するものの,結局のところ能力主義的傾向を共有している.
また,能力主義が陥りがちな,成功と失敗に対する道徳的に魅力のない態度──勝者のおごりと敗者の屈辱──に有効な反論をすることもない.
第6章 選別装置
ジェームズ・コナントの能力主義クーデター
1940年代にハーバード大学学長だったコナントは,世襲エリートを打ち倒し,能力主義エリートに置き換えることを目指していた.
能力の専制を暗示するもの/コナントが残した能力主義の遺産
レトリックの点からも哲学的観点からも,コナントの能力主義イデオロギーは勝利を収めた.
しかし高等教育を能力主義に変えても階級なき社会は到来しなかったし,才能がなくて排除された人へのさげすみも避けられはしなかった.
(コナント自身も認めるように,才能による選別と平等の追及はそもそも異なる企てである.)
能力主義をより公平にする
現行のシステムの不公正だけに的を絞ると,コナントの能力主義革命の核心にあるより大きな問いを避けることになる.
すなわち,「大学は人びとを才能に基づいて選別し,誰が成功するかを決めるという役割を引き受けるべきか?」という問いだ.
そうすべきではないと思われる理由は,少なくとも2つある.
1つ目は,選に漏れる人にとってはそうした選別がいら立たしい判定を暗示すること,また,共有される市民生活に有害な影響が及ぶことだ.
2つ目の理由は,選ばれる者が能力主義的な苦闘によって受ける傷と,大学が選別という使命に力を使い果たし,教育という使命から乖離してしまうリスクにある.
傷ついた勝者
ここでは「選ばれる者が能力主義的な苦闘によって受ける傷」について,少し詳しくまとめておこう.
無理もない親心とはいえ,子供の人生を能力主義的成功に向かわせ,管理しようとする親の姿勢は,特に大学入学前のティーンエイジャーの心理にひどい傷を与えてきた (心理学者レヴィン「特権階級の若者に蔓延する心の病」).
また心理学者によれば,勝者の間にひそかに完璧主義という病が蔓延している.
完璧主義は,能力主義の病を象徴する.
若者たちがたえず「学校,大学,職場によって選別され,ふるい分けられ,格付けされつづける」時代にあって,「新自由主義的な能力主義は,競争と実績と達成を強く要求し,現代の生活の中心に据える.」
適格者のくじ引き
適格者のくじ引きによる合否決定についての挿話:
ハーバード大学とスタンフォード大学の入試担当者によると,出願者の大多数がハーバードやスタンフォードでの勉強に適格で,問題なくやっていけるという.
「ときどき,やりきれない気分になります.何千人分[の願書]を全部……階段の上からばらまいて,手当たり次第に1000人を選んでも,委員会で話し合って選んだのと遜色ない学生ができあがるでしょうから」
第7章 労働を承認する
労働の尊厳をむしばむ[全文を引用する]
彼ら[大学を出ていないアメリカの一般労働者]が満足していないのは当然だ.
しかし,不満の原因は経済的困難だけではない.
能力主義の時代は,働く人びとをもっと陰険な形で傷つけてきた.
労働の尊厳をむしばんできたのだ.
選別装置は,大学入試で高得点をとる「頭脳」に価値を置くことによって,能力主義的な資格を持たない人をおとしめてきた.
彼らの仕事は高収入の専門職よりも市場の評価が低く,共通善への貢献が少ないから社会の承認と評価の度合いも低いというのが,選別装置の言い分である.
市場が勝ち組に与える潤沢な報酬と,大学の学位を持たない労働者に差し出す乏しい賃金を正当化しているのだ.
誰が何に値するのかをめぐるこうした考え方は,道徳的に擁護できない.
先に (第5章で) 検討した理由から,さまざまな仕事の市場価値は共通善への貢献度を示すという前提は,間違っている (多額の報酬を得る覚醒剤の売人と,安月給の高校教師を思い出そう).
しかし,この数十年で,収入が社会への貢献度を反映するという考えはすっかり定着した.
公共文化全体にその考えが行き渡っている.
能力主義的選別が,この考えの定着に一役買った.
新自由主義的な市場志向型グローバリゼー ションも同様で,1980年代以来,中道右派および中道左派の主要政党はそれを擁護してきた.
クローバリゼーションが途方もない不平等を生んでも,二つの考え方──能力主義と新自由主義──が,その不平等にあらがう根拠を押しのけてきた.
そして,労働の尊厳をむしばみ,エリー トに対する怒りと政治的反発をあおってもきた.
2016年以来,専門家と学者はポピュリストの不満の源について議論してきた.
根源にあるのは失業と賃金の停滞だろうか,それとも文化的排除だろうか?
しかし,そのようにはっきりと線引きするのは無理がある.
労働は,経済的であると同時に文化的なものだ.
生計を立てる手段であると同時に,社会的承認と評価の源でもある.
だからこそ,グローバリゼーションがもたらす不平等がそれほどの怒りと反感を生んだのだ.
繁栄する人びとがいるいっぽうで,グローバリゼーションから取り残された人びとは悪戦苦闘し ただけでなく,自らの労働がもはや社会的評価の源ではないとも感じてきた.
社会の目に,そしておそらく自身の目にも,彼らの労働は共通善への価値ある貢献のようには映らなくなった.
大学の学位を持たない労働者階級の男性では,ドナルド・トランプに投票した人が圧倒的に多かった.
トランプによる怒りと反感の政策に引かれたということから,彼らの不満が経済的困難だけではなく,ほかにもあることがうかがえる.
トランプの当選に至る歳月に増していった徒労感の表れからも,それがわかる.
能力主義的な資格を持たない人にとって労働事情が悪くなるにつれて,就労年齢の男性で労働人口から完全に脱落する人が増えているのだ.
1971年には,労働者階級の白人男性の93%が雇用されていた。2016年には,その割合はわずか80%になっていた.
無職だった20%のうち,求職していた人の割合はごくわずかである.
労働者の技能に目もくれない市場の冷遇に打ちのめされたかのように,ほとんどがただ諦めてしまっていた.
労働の放棄は,大学に進学しなかった人のあいだで特に深刻だ.
最終学歴が高卒であるアメリカ人のうち,2017年に雇用されていたのは68%にすぎない.
絶望死
しかし,アメリカの労働者階級の意欲喪失を最も切実に表すのは,労働の放棄ではない.
多くの人が,人生そのものを放棄している.
それを最も悲痛な形で示すのが,「絶望死」の増加だ.
労働の尊厳を回復する
40年間にわたるグローバリゼーションと不平等拡大のせいで取り残された人たちは,賃金の停滞だけに苦しんでいたのではない.
彼らが直面し,恐れたのは,時代から取り残されることだ.
自分が暮らす社会は,自分が提供できる技能をもう必要としていないように見えたのだ.
われわれは消費者であるだけでなく,生産者でもある.
消費者としては,自分のお金で買える最大のものを手に入れたい,財もサービスもできるだけ安値で買いたいと思う.
それをつくったのが海外の低賃金労働者でも,高賃金のアメリカ人労働者でも構わない.
いっぽう,生産者としては,やりがいがあって報酬のいい労働を望む.
消費者であり,生産者であるというわれわれのアイデンティティを仲裁するのが,政治の役目 だ.
ところが,グローバリゼーション・プロジェクトは経済成長の最大化を追求した結果,消費者の幸福を追求することになり,外部委託,移民,金融化などが生産者の幸福に及ぼす影響をほとんど顧みなかった.
グローバリゼーションを支配するエリートは,このプロジェクトから生じた不平等に立ち向かわなかっただけではない.
グローバリゼーションが労働の尊厳に与えた有害な影響に目もくれなかったのだ.
承認としての労働
消費者と生産者のアイデンティティの対比は,共通善を理解する2つの異なる方法を指し示している.
1つは,経済政策立案者のあいだではおなじみの,共通善をあらゆる人の嗜好と関心の総計と定義づける方法だ.
2つ目の方法は,市民的概念とでも呼べるものを優先する.
市民的理想に従えば,共通善とは,たんに嗜好を蓄積することでも,消費者の幸福を最大化することでもない.
自らの嗜好について批判的に考察すること──理想としては, 嗜好を向上あるいは改善することであり,それによって価値ある充実した人生を送ろうとすることだ.
それには,正義にかなう善良な社会を実現するにはどうすればいいかを,同胞である市民とともに熟慮することが必要だ.
市民的概念の視点からは,経済においてわれわれが演じる最も重要な役割は,消費者ではなく生産者としての役割だ.
なぜなら,われわれは生産者として同胞の市民の必要を満たす財とサービスを供給する能力を培 い,発揮して,社会的評価を得るからだ.
貢献の真の価値は,受け取る賃金では計れない.
賃金は,経済哲学者フランク・ナイトが指摘したように (第5章参照),需要と供給の偶発性に左右 されるからだ.
貢献の価値を決めるのはそのような需要と供給ではなく,力を注ぐ対象の道徳的・市民的重要性だ.
貢献的正義
ロバート・F・ケネディは仕事を通して共通善に貢献する機会を奪われる痛みを理解していた.
しかしながらケネディ以後何十年も,進歩派の大半はコミュニティや愛国心や労働の尊厳をうたう政治を放棄し,代わりに出世のレトリックを駆使してきた.
賃金の伸び悩みや,外部委託や,不平等や,移民とロボットが仕事を奪いに来ることを懸念する人に対して,統治者であるエリートたちは元気づけるような助言を与えた.
大学へ行きなさい.
グローバル経済で競い,勝つことのできる術を身につけなさい.
どれだけ稼げるかは,どれだけ学べるかにかかっている.
やればできる,と.
それは,グローバル化し,能力主義的で,市場主導の時代にふさわしい理想主義だった.
勝者の耳には心地よいが,敗者にとっては侮辱的だ.
その時代は,2016年に終わった.
ブレグジ ットの実現とトランプの当選,それにヨーロッパにおける極端な国家主義・反移民主義政党の台頭が,グローバリゼーション・プロジェクトの失敗を告げたのだ.
いまや問われているのは,どんな政治的プロジェクトがそれに代わるかである.
労働の尊厳について議論する
市場主導の社会では,物質的成功を道徳的功績のしるしと解釈する誘惑につきまとわれる.
それは,繰り返しあらがう必要がある誘惑だ.
そのための1つの方法が,共通善への真に価値ある貢献とは何か,市場の裁定のどこが的外れなのかについて,慎重かつ民主的な考察を促す方法を論じ,規定することだ.
そのような議論から合意が生まれると期待するのは,非現実的だろう.
共通善をめぐって意見 が分かれるのは避けられない.
しかし,労働の尊厳をめぐる議論を再開することで,党派的独善を排し,公共の言説を道徳的に活性化し,40年に及ぶ市場への信奉と能力主義の傲慢によって両極化した政治を超えて前に進むことができるはずだ.
実例として,2つの政治方針案について考えてみよう.
「オープンな方針」の傲慢
第1案は,若手の保守派思想家で,共和党の大統領候補だったミット・ロムニーの政策顧問を務めたこともあるオーレン・キャスによるものだ.
彼は労働者が安定した家族とコミュニティを支えるのに十分な給与を得られる職に就けるようにする政策が必要であると主張し,低賃金労働者への賃金補助や環境規制の緩和を提案している.
[関連:大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ』における,ベーシック・インカムに関する議論.]
キャスの独創的な提案の利点が何であれ,彼の計画で興味深いのは,軸足をGDPの最大化から,労働の尊厳と社会的一体性につながる労働市場の創出に移すとどうなるかを考察していることだ.
そうすることで,キャスはグローバリゼーションの擁護者を痛烈に批判している.
彼らは1990年代以来,最大の政治的分断はもはや左派と右派のあいだにあるのではなく,「開放的 (オープン) と閉鎖的 (クローズド)」のあいだにあると主張してきた.
キャスの的確な指摘によれば,グローバリゼーション論争をこのような枠にはめ込むのは,「高技能で大卒の,現代経済の『勝ち組』」を開かれた精神の持ち主,彼らを批判する者を偏狭な精神の持ち主と決めつけ,財と資本と人間の国境を越えた自由な移動に疑義を呈するのは頑迷だと断じることになる.
新自由主義的グローバリゼションを擁護するために,取り残された人たちをこれほど見下すやり方は,ほかに思いつかない.
「オープンな方針」の支持者は,豊かでない人にとっての解決策は高度な教育だと主張する.
「その理念は人びとを上昇させて機会を増やすとうたい,やる気を鼓舞するように見える」とキ ャスは記す.
「しかし、真意はそれほどほめられたものではない.経済がもはや平均的労働者の味方でないなら,労働者のほうが経済に好かれるように変わる必要があるというのだ」.
金融,投機,共通善
この数十年間で金融がいかに経済を再構成し,能力と成功の意味を微妙に変えたかという点は見落とされがちである.
金融業は過去数十年で急激に成長し,こんにち,先進諸国の経済に大きな場所を占めている.
こうした金融活動がすべて生産的で,そのおかげで経済が価値ある財とサービスを生み出す力を増しているならば,何の問題もない.
だが,現実はそうではない.
金融は,いかに好調であっても,それ自体は生産的でない.
金融の役割は社会的に有用な目的──新しい企業,工場,道路,空港,学校,病院,住宅など──に資本を割り当てて経済活動を円滑にすることだ.
ところが,ここ数十年,アメリカ経済に金融の占める割合が激増するにつれて,実体経済への投資の規模は縮小するいっぽうである.
複雑な金融工学が経済のますます多くの部分を占めるようになり,関係者には莫大な利益をもたらしているが,経済をより生産的にする働きは何もしていない.
金融活動は,経済価値をもたらすのではなく,実体経済からレント[正当化されない超過利潤]を搾り取っている可能性がある」
経済について見積もりが示唆するのは,金融活動の多くは経済成長を促すのではなく,妨げるということだ.
道徳的・政治的観点からすると,市場が金融に与える報酬と,金融の共通善への貢献の価値のあいだには大きな開きがあることを示している.
この開きが,投機的活動に携わる人に付与される過大な威光と相まって,実体経済で有用な財やサービスを生産して生計を立てる人の尊厳をあざけっているのだ.
結論 能力と共通善
第6章と第7章の補足を兼ねて,概要として訳者による解説を引用する (pp.329–330):
第7章では労働に焦点を当て,メリトクラシーの中で失われてきた労働の尊厳を回復するための方向性が検討される.
そして終章では結論として,消費者的共通善ではなく市民的共通善,機会の平等ではなく条件の平等が,「メリット」の専制を越えてゆくためには必要であると結んでいる.
このような検討をふまえてサンデルは次のことを対処策として提唱している.
まず大学入試については,社会階層別アファーマティブ・アクション (積極的差別是正措置) と適格者のくじ引きによる合否決定,技術・職業訓練プログラムの拡充,そして名門大学における道徳・市民教育の拡大である (第6章).
また労働や福祉については,賃金補助と消費・富・金融取引への課税を重くすることによる再配分である (第7章).
それらを通じて目指すべき社会のあり方は,次のように描かれる.
「巨万の富や栄誉ある地位に無縁な人でも,まともで尊厳ある暮らしができるようにするのだ──社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し,広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議することによって」(319ページ).