Spinoza描像
本稿では自然科学(とりわけ物理学)と相性が良いSpinozaの哲学について,科学との関係を整理しつつまとめる.またSpinoza的な描像の主要な帰結・含意として,「自由意志の否定」と「当為命題の虚構性」の二点を簡潔に議論する(下図).
Spinozaの思想はその代名詞と呼べる「神即自然」という標語に端的に表されている.ここで神とは世界の外部から世界に働きかける人格を持った存在ではなく,むしろこの世界そのものであり,それ故,神即自然と呼ばれる.そしてSpinozaによれば,あらゆる事物は神の「現れ」であって,神の内なる必然性に従って生起しているとされる.このような考え方は汎神論と呼ばれ,少なくとも自然科学が対象とする物理的世界に関して言えば,万物は自然法則に従って振舞うという自然観と重なる.この限りで神の必然性とは,自然法則ないしその原理としての物理そのものと同一視し得る.(そしてこのことは私を含め,Spinozaに共鳴する一部の者にとって,間違いなく物理学理論を学ぶ一つの大きな原動力となってきた.)また人間を含め自然物は与えられた目的のために存在・活動するという考えを,Spinozaは偏見として退けている.この点もやはり,目的因よりもむしろ機械論的因果律による現象の理解を試みる自然科学的な姿勢に通じる:鳥は空を飛ぶために羽があるのではなく,羽があるから空を飛べるのである.さらに精神と物体は異質な存在であるため,その相互作用を考えることはできない.しかし我々は心と身体の状態に関連性があることを経験的に知っている.これはSpinoza哲学において,それらが同一の神の異なる二つの側面を表しているからであると説明される.このように精神的な出来事と身体的(物理的)な出来事は互いに対応しているけれども,それらはあくまで独立に進行するという説は心身平行論と呼ばれる.これは物理現象がそれ自体で閉じており,そこに精神の作用が介入する余地はないとする自然科学の想定と整合する.(なお心身平行論を採用すれば,いかにして物質に過ぎない脳から意識が生まれるのかという,脳・神経科学に付きまとう形而上学的な難題も回避できる.)
以上のように,Spinoza哲学と自然科学の世界観は整合的である.しかしながらSpinozaの思想は彼の主著『エチカ』において,定義や要請,公理から出発して定理を演繹する,いわゆる「幾何学的方法」で「論証」されており,それ故それは数学同様,頭の中で完結している.現にSpinozaの汎神論は,神の必然性に相当する物理の具体的な詳細──決定論的であれ非決定論的であれ──に依らずに理解できる(Spinozaのオリジナルの自然観は決定論的である).これはSpinoza哲学が実験や観察によって反証できず,形而上学の域を出ないことを意味する.他方で経験科学は現実世界について語り得るものの,帰納的推論の産物であるため絶対確実な知識ではあり得ず,やはり形而上学的な命題の正しさを証明することはできない.むしろSpinozaが描くような形而上学的な直観が,物理学をはじめとする自然科学が依拠する前提を成していると言った方が正確である.
次にSpinozaのパラダイムは──Spinoza自身がはっきりと述べているように──人間の自由意志を否定することを説明する.ここで自由意志とは,因果律の連鎖または物理法則の支配を断ち切り,純粋に自発的な行動を引き起こす超自然的な精神の作用として定義できる.言い換えれば自由意志とは言わば無からの創造であり,不可能を可能にするという自己矛盾であり,その定義により虚構に他ならないことが明らかである.実際Spinozaが主張するように,一切は神の必然性によって完全に決定されており,また精神は身体に影響を及ぼさないならば,自由意志は存在し得ない.また人間も自然の一部であって,神の現れであるならば,自由意志を行使し得る行為の主体ははじめから存在しないことになる.これは一見すると能動的・主体的な人間の行為も,渾然一体とした単なる物理的な出来事(例えばミクロな粒子の運動や場の時間変化)から成るという,要素還元論的な見方に対応する.さらに量子力学の描くような非決定論的な自然観を導入しても,自由意志を救うことにはならないことに注意しよう.なるほど,「決定論が正しければ自由意志は存在しない」という伝統的な議論は分かりやすい.ただしこの命題の裏も成り立つとは限らない.実際,事物がランダムに確率的に生起するとしても,人は世界のなすがままに振り回されてしまうのであれば,我々はそこにも自由意志を見出せないだろう.
自由意志は存在しないと主張することは,露悪的だという印象を与えかねない.とは言え人は時として,このことを括弧に入れて考えることが許されないような,差し迫った苦境に陥ることも確かである.そのような人生の局面の象徴的な例として,受験勉強が挙げられる.勉強しなくてはいけないと思いつつもやる気が出ず,一向に行動を起こせないという金縛りのような無気力状態を,誰しも少なからず経験したことがあるだろう.このときもし意志の力で言うことを聞かない身体を強制的に行動へと駆り立てられるならば,それは無気力の中でも自由に発動させることができる精神の能力,すなわち自由意志でなければならない.ところが自由意志は存在しない以上,意志を抱くことや努力することは,それが神即自然の必然性に従って自動的に達成されない場合には絶対に不可能である.このような認識は必ずしも状況の解決には役立たないものの,思うに真なる認識であって,それを安易に無視することはかえって「無責任」な言動や実践に繋がりかねない.現代社会を伏流している新自由主義的な自己責任論のイデオロギーもその例外ではなく,それは本来,哲学的に正当化し得ないということも,ここで強調しておきたい.
最後に事実と価値の対立について論じる.一般に「……べきだ」という形に帰着できる,規範を表す命題を当為命題という.受験勉強をすべきとされながらもそれができない先の受験生の例は,自由意志なき世界では,我々がしばしば相容れない事実と当為の間で否応なく引き裂かれる運命にあることを示している.またそれ以前に,当為命題はいかに論理で武装しようとも,恣意性・無根拠性を免れないということも言える.その理由は次のようにまとめられる.まず素朴に理解できるように,自然にはもともと絶対的な善悪の区別は存在しない.(これはSpinozaの採る立場であると同時に,科学が自明視する暗黙の了解でもある.)このため当為命題は事実命題だけからは導けない(このことはHumeの法則と呼ばれる).しかるに,ある当為命題を導く論理が循環論法や無限後退に陥らないためには,何らかの前提条件を出発点として認めなければならない.よってこの前提条件にもまた,何らかの当為命題が含まれることになる.再びHumeの法則より,この当為命題は単に現実世界との一致・不一致に基づいて真偽を判断できるものではないため,無条件に認めることを強いられる.以上よりあらゆる当為命題は独断論であることを免れない.ただし──ここが重要だが──「こうあるべき」とは言えずとも,事実として「こうあってほしい(と思っている)」と述べる分には間違いにならない.このことを踏まえてはじめて,我々は普遍的な「正義」を求める答のない(擬似)問題と,それをめぐって弁論術を競うだけの表面的な水掛け論を脱し,個々人の気持ちを「感情論」として排除しない,地に足のついた真に倫理的な対話を行うことができる.
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